改札の内側から非常扉を開けるのは、「マナー」

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幼少のころからの「引っ越し族」で、ジャーナリストになってからも海外で住居を転々としている。いずれの町にも暮らしの流儀というものがあり、町に親しんで地域の仲間に迎え入れてもらえた瞬間は、何よりもうれしい。

心が通じ合うためのやり方は地域によって様々だが、アメリカで暮らすようになり、犯罪多発地帯として悪名高いニューヨーク・ブルックリンのブラウンズビル周辺に引っ越した際に住民が見せてくれた「仲間の証」は、地下鉄の無賃乗車への誘いだった。


駅の改札前でクレジットカードを取り出そうともたもたしていたところ、黒人の若い男性が改札の内側から非常扉を開け、向かい入れてくれたのだ。若者は身軽に改札のバーを飛び越えていた。むろん、そのまま電車に乗ったならば、無賃乗車となっていただろう。
ブラウンズビル周辺では珍しいことではない。後から来た人を「仲間」と認めて内側から非常扉を開けることは、ある種の「マナー」となっている。
駅に駅員はほとんどおらず、いても固く閉ざされたボックスだ。無賃乗車があっても対応しない。

無賃乗車は、本来ならば拒否しなければいけないことだが、自分のことを「仲間」と認めてくれた若者の好意を無にすることもできない。アウトローな土地柄、「郷に入れば郷に従え」のことわざ通りにニコッと笑って中に入った。

ブラウンズビル周辺は貧困層が多く住む。貧しい住民同士の助け合いが、無賃乗車の輪を広げている。ニューヨークの無賃乗車はブラウンズビルに限ったことではない。
マンハッタンの中心部にあるタイムズスクエアなど、多くの人々が行き交うビッグステーションでも日常茶飯事だ。ニューヨークの地下鉄はニューヨーク州都市交通局(MTA)が運行を担い、24時間休まずに走っている。駅の数は472。どこまで乗っても同一料金(’26年1月から3ドルに値上げ)で、駅に入場する際にクレジットカードなどで運賃を支払い、駅から出る際の検札はない。

財政監視団体である市民予算委員会によると、ニューヨークの地下鉄での無賃乗車は2024年には約1億7400万件あった。1日に換算すると約47万6700件で、1分間に約330件発生していたことになる。地下鉄以上に路線網が多いバスはさらにひどく、1分間で約710件の無賃乗車があった。

地下鉄とバスの無賃乗車によるMTAの損失額は年間で約10億ドルとされ、日本円に換算すると約1550億円にのぼる。地下鉄の車両180両分、バスの630台分、約58キロにおよぶ新しい信号機の設置費用のいずれかをまかなうのに十分な額だ。
無賃乗車の損失額は、新型コロナウイルス感染拡大前の’19年に比べ、約3倍に増加しているという。

ほとんどの乗客が無賃乗車だと知りながら、バスを走らせる運転手

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ニューヨーク市内を走るバス(写真:AdobeStock)
実は地下鉄だけではなくバスでも、周囲の乗客に押し流されるように支払いなしに乗車してしまいそうになったことがある。世界最大級の刑務所、ライカーズ島刑務所近くでの取材の帰りに、幹線道路沿いのバス停でバスを待っていた。夕方の帰宅ラッシュに加えて、周辺道路は大渋滞している。
バスが大幅に遅れたため、バス停には人の山ができていた。身ぎれいな人は誰もいない。並んでいるのは、ほとんどが労働者で、立っているだけで周囲のイライラが伝わってきた。

ようやくバスが着くと、人々はなだれ込んだ。目の前にあったのは降り口である後ろのドアだ。周囲の流れに飲み込まれるように、車内に入った。料金を支払うタッチパネルは後ろのドアの近くにも設置されていたが、作動せず、支払いできないままに目的地まで行った。周囲の乗客も、状況は一緒だった。

運転手は、ほとんどの乗客が無賃乗車であることは承知していたものの、「料金を払え」というアナウンスはせずにバスを走らせた。こうした光景は、マンハッタン以外の地域では珍しくはない。

もちろん、MTAは無賃乗車を放置しているわけではない。改札の回転式バーに半月型の板を取り付けて、安易に飛び越せないようにしたり、改札の機械上部にサメの歯のような金属板を設置して登れないようにしたりして、対策を強化している。


MTA内で「運賃逃れのスーパーハイウェイ」と呼ばれている非常扉については、約40%の駅で扉が開いている時間を短縮させた。開いている間に通り抜ける人間の数を減らすためだ。また一部の駅では非常扉の前に警備員を立たせるようにした。さらに’25年後半以降、最新鋭の電動改札機の導入を進めている。

しかし、いずれも無賃乗車を根絶するには決定打を欠く。半月型の板は障害にはなっても、本気でやれば飛び越えられる。非常扉の前の警備員は改札を飛び越えることを止めたり、無賃乗車をした者を追いかけたりする任務は課せられていない。最新鋭の電動改札機は、飛び越えるのはやっかいだが、下からくぐるのは簡単だ。

地下鉄では保安のためニューヨーク市警(NYPD)の警察官や州兵がパトロールする姿が多くなった。NYPDには、これとは別に無賃乗車を取り締まる専門チームがある。しかし、無賃乗車を1件1件、その場で摘発はしない。無賃乗車チームの主目的は、無賃乗車をした者の中から指名手配者など重大犯罪にかかわっている容疑者を見つけ出すことだ。


ニューヨーク市の法令では、初めて無賃乗車で摘発された場合は警告のみで罰金は課せられない。2回目の摘発では罰金100ドル。期日までに罰金を支払えば半額が地下鉄乗車カード(OMNY)にチャージされ返金される。

貧困が引き起こす犯罪に、徹底的な対策は取らない

こうしてみると、ニューヨークは無賃乗車に寛容である。それが「貧困によって引き起こされる犯罪」であるとの認識が社会に定着しているからだろう。ある程度は大目に見なければ、貧困層の不満は爆発してしまう。そうした事態を避けるために「完膚なきまで」の対策はしない。
多種多様な人種が集い、考え方がバラバラだからこそ、日本のように社会に完璧を求めていないのだ。

「無賃乗車をなくしたい」という建前と、「なくせるわけがない」という本音。あいまいな中で、無賃乗車ははびこり続けている。

ところで無賃乗車しそうになった地下鉄とバスの結末だが、目的地に到着したところで、駅とバス車内のタッチパネルにクレジットパネルをかざして運賃を後払いした。バスの運転手は「そんなことしなくていいのに」と驚いた顔をしていた。


【谷中太郎】
ニューヨークを拠点に活動するフリージャーナリスト。業界紙、地方紙、全国紙、テレビ、雑誌を渡り歩いたたたき上げ。専門は経済だが、事件・事故、政治、行政、スポーツ、文化芸能など守備範囲は幅広い。
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