これは2006年施行の「自殺対策基本法」で定められた取り組みで、今年で20年目になる。
多くの会社にとって年度末に当たる3月は、環境変化が一気に押し寄せ、複数のストレスからメンタル不調に陥りやすくなるためだ。
厚生労働省の自殺対策白書(2023年データ)によれば、自殺者の約6人に1人が3月に亡くなっている。特に深刻なのが40~50代の男性。働き盛りと言われるこの世代は、3月の自殺者数が顕著に跳ね上がる。
環境変化はすべてストレス
決算業務に追われ、残業が増える。人事異動の発表があり、不安が募る。新しい環境への準備も始まる。環境変化が重なるこの時期、産業医の大室正志氏はこう警告する。「環境変化はすべてストレス。昇進も結婚もストレスなんです」
意外かもしれないが、昇進や結婚などの喜ばしいことも、それまでの生活環境が変化することに変わりはなく、例外なくストレスになるという。
こういった環境変化を、大室氏は「コップの水」で説明する。
「降格や叱責のような分かりやすいストレスは、コップに大量の水を注ぐイメージです。一方、引っ越しや子供の入学といった変化も、実はコップの基本水位を静かに押し上げています。
表面張力で耐えていた水が、本来ポジティブなはずの環境変化によって溢れ、休職せざるを得ない状態まで追い込まれてしまうこともあるのです」
脳が疲れを消してしまう?人間特有の危険な性質
なぜコップの水が溢れるまで放置されてしまうのか。答えは単純だ。そして、なぜ気づかないのか。それは人間特有の性質による。
「人間は、疲労のサインを脳が消してしまう生き物です。例えば、チーターがインパラを追っていても疲れれば諦めるように、動物は疲労サインが出たら動きを止めます。
しかし、人間は何か夢中になっていたり、集中していたりすると、疲れているという信号そのものを脳が消してしまうんです」
狙っていたアップルの新製品発売日なら、前日から徹夜で並べる。しかし、これは疲れていないわけではない。夢中になっているからこなせてしまえるのだ。
「エナジードリンクを飲むと、一時的に目が覚めるのと同じようなことが、脳内でも起こっているのだと考えてください。
人間は何かに夢中になったり、責任感を持って何かに取り組んだりすると、疲れを自覚することをマスクしてしまう。これが人間を進化させた部分でもあり、その副作用として最悪の場合は過労死に至ってしまうわけです」
だからこそ、自覚症状だけを頼りにしてはいけない。大室氏が診てきた休職予備軍には、ある共通のサインがあるという。
産業医が見た休職予備軍が通る5つのステップ
自覚症状がないのなら、何で気づけるのか。大室氏によれば、休職する人には共通する変化があり、しかもそれが早期から段階的に現れるという。つまり、気づければ早めに対策できるのだ。
ステップ1:休日に好きなことをしなくなる
最も初期のサイン。趣味のテニスや映画鑑賞など、それまで好きで行っていた自分の習慣がいつの間にかなくなっていないか。「言われてみれば最近やっていない」と気づいたら、最初の危険信号だ。
ステップ2:頭を使う仕事を後回しにする
企画や難しい課題など、少し考える必要がある仕事が後回しになる。複雑な思考を避けて、単純作業にばかり逃げてしまっている状態だ。
ステップ3:文字が読めなくなる
長めのメールや本などの活字を読むのがしんどくなる。大室氏によれば、休職する人のほぼ全員がこの症状を訴える。この段階まで来たら、危険度はグッと上がる。
ステップ4:睡眠時間が6時間を切る
テンションが高くても、睡眠時間だけは正直。6時間を切っているなら、すでに体への負担が深刻になっている。
ステップ5:体の症状が出る
頭痛や腹痛など、身体症状として現れる。ここまで来たら、休職すべきレベルに達している可能性が高い。
メンタルを崩す人は「真面目」だけじゃない
こうした症状は、真面目で周囲に気を遣い「空気を読みすぎる」人がかかりやすいと思われがちだが、大室氏は「空気を読めない」タイプもリスクが高いと指摘する。ただし、その中には分類がある。
「完全に空気を読めない人は、いわば機内モードのような状態で、余計なエネルギーを消費しません。
しかし、少しは空気が読めるけど本当は苦手という人は、常に周囲の空気を読もうと気を張っているのに、うまくいかない。例えるなら、電波が1本しかない状態でネットにつなごうとしている、最もエネルギーを消耗するタイプです」
上記のような人は、固定された人間関係の中でさえコミュニケーションに苦労しているはずで、3月の環境変化をきっかけに水が溢れてしまうことは想像に難くない。
3月を乗り切る3つの鉄則
ここまで、3月の危険とその兆候を見てきた。複数の環境変化がストレスとなって重なり、無意識のうちに心に負担をかけている。では具体的に何をすればいいのか。大室氏が勧める3つの鉄則を紹介する。
①環境変化を紙に書き出す
「些細なことでも構わないので、引っ越し、子供の入学、部署異動など、自分に起きた環境変化を全て書き出してみてください。それだけで、コップの水位がどのくらい上がっているか、目に見えるようになります」
②休日の過ごし方をチェック
「好きだったことを、今も続けられているか。そこが最も早いサインになります」
③睡眠時間を死守する
「最低でも6時間、できれば7~8時間は確保してください。
メンタルクリニックを選択肢に入れておくことが大切
これらを意識してみて、それでも2週間以上、不調が続く場合は、医療機関への受診を考えてほしいと大室氏。とはいえ、メンタルクリニックへの受診は、心理的なハードルが高いと感じる人も多いだろう。「でも実際に行っている人は、思っているよりもはるかに多いんです」と大室氏は言う。
まず前提として、大室氏は「基本的に内科ではなくて、メンタルクリニックに行くべき」と指摘する。
「最も理想的なのは、院長の名前を看板にしているクリニックです。主治医が固定されているため、安心して継続的な治療が受けられるでしょう。ただし、こういったクリニックは予約が殺到していて、初診が1か月以上待ちという場合も多いですね」
その場合の選択肢が、駅前などにある大型クリニックだ。
「自分のメンタルが限界を迎えたとき、すぐに受診できるのが強みです。ただ、主治医が一定期間で変わる可能性が高く、その点は理解しておいてほしいところです」
オンライン診療も選択肢の一つだ。
「診断書や睡眠薬だけが必要であれば、オンラインでも対応できます。あくまで補助的なものとして活用できるかなと思います」
最後に、受診をためらう人への大室氏の言葉がある。
「今は、駅を降りればメンタルクリニックが至るところにある時代です。
3月を乗り切るために。まずは自分のコップの水位を確認することから始めよう。
<取材・文・写真/安倍川モチ子>
【安倍川モチ子】
東京在住のフリーライター。 お笑い、歴史、グルメ、美容・健康など、専門を作らずに興味の惹かれるまま幅広いジャンルで活動中。X(旧Twitter):@mochico_abekawa
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