ジャーナリストの森田浩之氏は、ミラノ・コルティナ五輪を通じて顕在化した誹謗中傷の問題を、アスリートと社会の関係性の変化から読み解く。フィギュア男子の金メダル候補だったイリア・マリニンが競技後に漏らした「卑劣なネット上の憎悪は心をむしばむ」という言葉を起点に、SNS時代において観客が無自覚に加害者へと転じていく構造に警鐘を鳴らす(以下、森田氏による寄稿)。
卑劣なネット上の憎悪は心をむしばむ
ミラノ五輪のフィギュア男子シングルで、金メダルの本命だったイリア・マリニン(アメリカ)が8位に沈んだ。後半のフリーで転倒が相次ぎ、演技を終えると両手で顔を覆った。その姿は、リンク上の失敗を超える何かを抱えているようにも見えた。マリニンは競技後、SNSに「卑劣なネット上の憎悪は心をむしばむ」と投稿し、オンライン上の否定的な言葉が精神面に重くのしかかっていたことを示唆した。エキシビションの演目には、SNSの危険性をテーマにした「FEAR(恐れ)」を選んだ。
アスリートを狙うSNS上の中傷が深刻化している。日本オリンピック委員会(JOC)は冬季五輪開幕前から、24時間体制でネットを監視。1月中旬以降、五輪に関する約24万件の投稿を確認し、日本選手の実力や容姿などに絡む1919件の削除を要請した。すでに中傷は、競技団体が想定すべきリスクになった。
背景には3つの変化がある。
まず、アスリートと観客の距離が変わった。SNSは練習風景やオフショットを日常的に流し、ファンに「知っている」という感覚を与える。疑似的な親密さが生まれ、相手との境界線を解かす。
このとき、心理学でいう「オンライン脱抑制効果」が働く。匿名性と非対面性が抑制を弱め、共感を鈍らせる。心理的な距離は薄れ、中傷する言葉のハードルが下がるのだ。
アスリートの側から見てみると…
次に観客そのものが変わった。今や観客は採点し、評価し、拡散する。「いいね」や再生回数が反応を数値化し、強い言葉ほど広がる。参加している感覚は心地よいが、そこから「言ってもいい」という錯覚が生まれる。しかもSNSでは直接罵倒しなくても、過激な投稿に反応するだけで拡散を後押しすることがある。そして、スポーツを取り巻く文化が変わった。
距離が消え、観客が参加者になり、不確実性に耐えにくくなった社会。この3つが重なれば、誹謗中傷が増えるのは偶然ではない。
アスリートは今、無数の視線が発せられる「見えない観客席」を前に立っている。その席から放たれる言葉の重さを、私たちは知るべきだ。次に観客席に座るのは私たちかもしれないのだから。
【森田浩之】
もりたひろゆき●ジャーナリスト NHK記者、ニューズウィーク日本版副編集長を経て、ロンドンの大学院でメディア学修士を取得。帰国後にフリーランスとなり、スポーツ、メディアなどを中心テーマとして執筆している。著書に『スポーツニュースは恐い』『メディアスポーツ解体』など
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