「改元は漢朝の元号から吉例を選ぶこと」「紫の衣はよく考えて与えるべきである」──本来、皇室の領域であるはずの事柄すらも、幕府の支配下へと置いた「禁中並公家諸法度」。だが「紫衣事件」を境に、朝廷は逆襲へと転じていく――(以下、倉山満著『噓だらけの日本近世史』より一部抜粋)

紫衣事件──幕府の「無効」主張

譲位で挑んだ天皇の逆襲。なぜ女帝誕生は徳川秀忠の計画を挫いた...の画像はこちら >>
 一六二七(寛永四)年、紫衣事件が起こります。後水尾天皇は幕府に相談なく、多くの僧侶に紫衣を与えました。
禁中並公家中諸法度第十六条には「よく考えて与えるべきある」としか書いていないし、紫衣の授与は朝廷の貴重な収入源ですし、そもそも天皇が何をしようが構わないはずです。ところが幕府は「聞いてない」と言い出しました。幕府の解釈は、「幕府に相談なしの紫衣の授与は無効である」です。禁中並公家中諸法度の二年前に、「公家法度」「紫衣法度」を発し、そこでは幕府に事前許可を得よとされていましたが、それは禁中並公家諸法度に変わったはず。しかし幕府は、禁中並公家中諸法度でも幕府の事前許可が必要であるとの解釈を押し付けました。

 露骨な「解釈改憲」に、紫衣を与えられた高僧の沢庵らが抗議しますが、幕府は島流しで応えます。ちなみに沢庵和尚、漬物の沢庵の語源とも言われる人ですが、幕府とも人脈がある高僧。でも、お構いなし。

譲位の意向も「秀忠の意向」で却下

 一六二八年七月、ここで天皇は譲位の意向を幕府に伝えます。可哀そうに高仁親王は、一か月前に満二歳で夭折。和子さんは妊娠中でしたが、まだ男女どちらかはわかりません。天皇は女一宮(後の明正天皇)への譲位の意向を漏らしますが、家光が「相国様(秀忠)の意向で」と止めて沙汰やみです。

 九月、和子が産んだのは男の子でした。
幕府は天皇の譲位を警戒して、生まれたばかりの皇子を智仁親王の猶子にしてしまいます。親王には息子がいるのに(野村玄「明正天皇論」(『京都産業大学論集』二九号)。ただ、幕府が神経質になりすぎで、この皇子は生後十日で亡くなってしまいました。

 一六二九年五月、天皇は腫物治療を名目に、またもや譲位の意向を伝えます。これを秀忠は、何度も依頼を受けていた沢庵らの赦免も含めて、まとめて拒否。

 それどころか九月、将軍家光の乳母である「おふく」が参内の意向を示します。これは秀忠の意向だったようで(『国史大辞典』「春日局」の項)。何を考えたか知りませんが、天皇の様子を探らせようとしたようです。しかし、一介の武家の娘が天皇に拝謁を賜るなど、許されません。そこで遠縁の三条西実条(さんじょうにしさねえだ)の猶妹となり、「これで形式は整っただろう」と言わんばかりの態度。実条のお父さんが亡くなっていて養子になれないので、養妹。ここに、天皇の怒りは頂点に達します。


「春日局」の称号は皇室の嫌がらせか

 参内に先立ち、おふくは「春日局」の称号を賜ります。室町幕府三代将軍、足利義満の側室と同じ名号(称号みたいなもの)です。建前は「室町の先例」とされました(久保貴子『徳川和子』七九頁)。これ、私は、絶対に嫌がらせだと思います。

 義満と言えば、皇室乗っ取りを図り、肉薄した大逆賊です。側室春日局が産んだ義嗣を天皇にしようとしたと考えられています。少なくとも、義嗣は非業の最期を遂げている、決して吉例とは言えない名号です。朝廷のかろうじての、しかし怒りと呪いを込めての逆襲と考えるのが自然でしょう。それをヌケヌケと「室町の三代目もそうだったから」と言うのが、皇室の奥義です。ついでに都合が良いことに、義満の乳母の名も春日局でした。

 天皇は後年に「武家の娘が公家の娘だなどと言い張って自分に会いに来たなんて話、聞いたことが無い」と『当時年中行事』に書き残していますが、よほど不愉快だったのでしょう。

 ちなみに『当時年中行事』は、朝儀が絶えていることを嘆いた後水尾天皇が、朝儀再興の為に書き留めた、儀式の作法などのマニュアル集です。天皇は、記録収集と整理、研究も進めました。


 さて延々、秀忠に一方的にコケにされ続けた天皇、遂に逆襲に転じます。

なぜ譲位が幕府への抗議になるのか

 教科書的な教え方です。

<通説>
 紫衣事件など幕府の干渉に怒った後水尾天皇は、抗議の意思を示すために娘の明正天皇に譲位した。


 その通りですが、初めて江戸時代の歴史を習った人が、これだけで分かるはずがありません。しかし、日本の学校教育では、これを丸暗記させられて、受験で答えれば正解です。何の意味があるのか。

 そこで、「嘘だらけ~」シリーズの出番です。

 かつて後深草上皇は、弟の亀山天皇の系統ばかり優遇する鎌倉幕府に対して、「太上天皇の尊号を返上、出家するぞ」と脅したことがあります。たとえるなら「抗議の自殺」みたいなものです。それをやられると、幕府の側も「天皇を虐め倒した」と評判が悪くなります。事実「上皇は何の罪も無いのに可哀そう」の声が広がり、鎌倉幕府は慌てて上皇を宥めました。

 室町時代の後土御門天皇も、明応の政変で自分が任命した将軍の足利義材(よしき)を放逐した細川政元への抗議の意味で譲位しようとしたことがありました。「やってらんねえ」って。
ただし、譲位をしようにも金がなく、結局は政元を頼らねばならないので断念しました。

 後水尾天皇が何度も譲位を試みたのも、同じです。後土御門天皇は生涯五度にわたり譲位を阻止されましたが、後水尾天皇も既に似たようなもの。だから、何年も緻密に計画を立てていました。

幕府を出し抜く電光石火の譲位劇

 一六二九(寛永六)年十月二十九日、女一宮に内親王を宣下します。名前は、興子(おきこ)。これが譲位への第一歩です。一部の側近だけで進め、厳戒態勢の秘密保持。朝廷を監視する役割の京都所司代ら、幕府はまったく動きを摑めませんでした。

 そして間髪いれず、十一月八日に譲位をしました。奈良時代末期の称徳天皇以来、八五九年ぶりの女帝の登場です。

 奇襲効果は抜群。多くの噂が流れ、大名の細川忠興が「紫衣事件や側室との子供を次々と殺されたのが原因だろうけど」と書き留めています。


 朝廷も幕府もお互いに情報が無く、相手の出方を窺うばかり。十二月二十六日、大御所秀忠の意向は「叡慮次第(えいりょしだい)」です。言ってしまえば、「勝手にしろ」。

 まだまだ不気味な沈黙が続きます。その間も朝廷と幕府の監視機関である京都所司代の間では、駆け引きが続いていましたが、下っ端にできるのは情報を探るだけ。しかし、お互いに何を考えているのか、摑めません。

昭和天皇に通じる後水尾天皇の幕府への奇襲

 この時、後水尾天皇が不幸を逆用したのは、和子が産んだ男の子が二人とも夭折していたことです。天皇、一時は高仁親王に譲位しようとしましたが、幕府に阻止されていました。それが結果的に幕府の首を絞めました。

 この時点で古代に六人の女帝がいます。全員が未亡人か生涯独身です。興子さん、生涯独身を運命づけられました。
かくして、秀忠は「孫を天皇にする」との野望を打ち砕かれました。だから、抗議になるのです。ただし後水尾上皇が最初から狙った訳ではなく、(不幸な)偶然を利用した面もありますが。韓流ドラマだと「実の子を殺してでも徳川の望みを断つ!」みたいなストーリーにするでしょうが、さすがに証拠がありません。

 後水尾天皇の幕府への奇襲、昭和天皇が陸軍を出し抜いて戦争をやめさせたやり方に似ています。相手は武力を持っています。自分を蔑ろにする。しかし、間合いさえ間違えなければ、自分に決定的な危害を加えられません。だから何年も前から準備して、相手に心の隙ができた瞬間に、一気呵成(いっきかせい)に事を為す。昭和天皇が具体的に何をしたかは、小著『救国の君主』で。

 後水尾天皇の奥義、昭和天皇は間違いなく学んでいたと想像します。

譲位で挑んだ天皇の逆襲。なぜ女帝誕生は徳川秀忠の計画を挫いたのか
『噓だらけの日本近世史』


【倉山 満】
皇室史家。憲政史研究家。1973年、香川県生まれ。救国シンクタンク理事長兼所長。中央大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士前期課程修了。在学中から’15年まで、国士舘大学日本政教研究所非常勤職員を務める。現在は、「倉山塾」塾長、ネット放送局「チャンネルくらら」などを主宰。著書に『13歳からの「くにまもり」』など多数。ベストセラー「嘘だらけシリーズ」の最新作『噓だらけの日本近世史』が2月28日より発売
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