2025年は全国で熊による被害が相次いで大きな話題となった。
 とりわけ東北の目撃例・被害例は著しく増え、筆者が暮らす青森県では、2025年の熊(ツキノワグマ)出没件数が記録の残る1992年以来、過去最高の3333件となった。
それまでの最高が2023年の1133件だったから、じつに3倍まで一気にふくらんだわけだ。

 人身被害は10件で、不幸中の幸いといっていいのか死亡例こそなかったものの、やはり過去最高の件数だった。

 その多くは倒れているところを発見され、救急搬送により一命をとりとめた、というパターン。発見が遅れれば命を落としていたと思われるケースも少なくなかった。

 ただ、なかには熊を投げ飛ばして撃退したという、きわめて稀なケースもある。

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国道沿いのラーメン店で起きた惨劇

 そんな、手練れの格闘家のような闘いっぷりで熊を撃退し九死に一生を得たのは、青森県三戸町のラーメン店「麺工房 てんや」の店長、宮木昌志さん(58歳)だ。

 恰幅こそいい宮木さんだが、人懐っこい笑顔が印象的な、強面の格闘家とは程遠いイメージの人物。どちらかといえば、むしろかわいらしい熊のぬいぐるみのイメージに近い。

 そんな宮木さんが熊と遭遇したのは、2025年11月9日早朝のこと。「麺工房 てんや」は青い森鉄道・三戸駅から直線で2キロほど離れた国道4号線沿いにある。朝6時から営業しており、国道を使うドライバーたちにいわゆる「朝ラー」を提供している。バラエティに富んだ食感が楽しめる手もみ麺と、秘伝のスープがウリの地域の人気店だ。

 宮木さんは毎日朝4時には出勤し開店準備にとりかかるのだが、その日は出勤早々に招かれざる客の来訪を受けた。


「店に出ると、まず最初に裏にあるガスの栓を開けるんだけど、裏口の扉を開けると、建物の隅に黒いかたまりがチラッと見えた。野良犬かなんかだろうとあまり気にせず、ずいぶん大きな犬だなあなんて思いながら、その黒い塊に背を向けるような形でガスの栓をあけようとしたんだ」(宮木さん)

 三戸町は岩手県と秋田県の境界に接する、面積の約7割を山林や原野が占める山に囲まれた地域だ。熊の目撃例はこれまでもあったが、市街地や住宅地に現れたことはほとんどなかった。ましてや、店舗の建物内に侵入するケースは聞いたことがないという。「麺工房 てんや」のまわりにも山林が広がるが、目前の国道4号線はそれなりに交通量もあり、敷地内に熊が現れることはなかった。

 ガス栓を開けようと背を向けた宮木さんだったが、すぐに異様な気配を感じ振り返った。そこに、熊の左手が飛んできた。

「とっさに顔を引いたけど、右目付近をひっかかれた。間一髪で引いた分、ひっかかれたで済んだけど、まともに食らっていたら顔の右半分をいかれてしまっていたかもしれない」(宮木さん)

あばら骨を骨折しながら決死の突進

「大きな野良犬だと思ったら…」58歳男性が熊に襲われ“撃退”するまでの顛末「右目上の傷からは骨が…」12針を縫う大けが
“熊に勝った男”こと宮木昌志さん
 熊は、背を向けて逃げる者を追いかけて襲う性質があるという。ガス栓を開けようと背を向けた宮木さんに、熊は本能的に襲い掛かったのだろう。

 2025年10月には、岩手県北上市の温泉施設で露天風呂を清掃中の男性従業員(60歳)が行方不明となり、翌日、近くの雑木林で遺体で発見されるという痛ましい出来事があった。遺体の損傷具合などから熊に襲われたと見られている。目撃者がいないのであくまで想像の域を出ないが、おそらく、背後から襲われたのではないだろうか。
熊に遭遇した際、背中を見せて逃げるのは絶対にやめるべきだとされる。
 
 なんとか致命傷を負わずに済んだ宮木さんだったが、熊との格闘は続く。必死に組み合うなかで、のちにわかったことだが右あばら骨を骨折していた。

「もうダメだと覚悟した」という宮木さんに千載一遇のチャンスが訪れた。熊が手を大きく上げたことで右わきが開くのが見えた。宮木さんはその右わき目がけて体ごと突進した。すると、熊は仰向けにダウン。予想外の展開に驚いたのか、倒れた熊は起き上がると一目散に逃げていったという。

熊を追い払ったあと、仕込み作業に取り掛かる

「大きな野良犬だと思ったら…」58歳男性が熊に襲われ“撃退”するまでの顛末「右目上の傷からは骨が…」12針を縫う大けが
国道4号線沿いにある「麺工房 てんや」
 驚くのはここからだ。

 九死に一生を得た宮木さんは、店内に戻り開店の準備を続けたのだ。

「傷からは血が止まらないし、体は痛いしでしんどかったけど、開店時間が迫っていたし仕込みをしなきゃ、と思って」(宮木さん)

 見上げたプロ根性だが、その光景を目の当たりにすれば、誰でもびっくりせずにいられないだろう。

「おいっ、どうしたんだ!」

ほどなく店にやって来たオーナーの佐々木剛さんは、血のあふれる傷口をおさえながらスープを煮込む宮木さんを見て、驚きの声を上げた。事情を聞いた佐々木さんはすぐに救急車を呼び、宮木さんは病院に搬送された。


 当然ながらお店は臨時休業。宮木さんは病院で12針を縫う治療を受けた。右目上の傷からは骨がのぞいていたという。

Tシャツを作り、さらには鉄製の柵を設置

「大きな野良犬だと思ったら…」58歳男性が熊に襲われ“撃退”するまでの顛末「右目上の傷からは骨が…」12針を縫う大けが
佐々木剛オーナーが自費で設置した鉄製柵
 一日の入院で帰宅した宮木さんだったが、身体的・精神的ダメージは重く、お店はおよそひと月半ほどの休業を余儀なくされた。

「もちろん売り上げ的には痛かったけど、無理はさせられない。ピンチをチャンスに変えよう、と考えた」

 という佐々木さんが宮木さんに贈ったのが、「熊に勝った男Tシャツ」。今でこそ落ち着いたものの、お店再開直後には、“熊に勝った男”見たさに訪れるお客も少なからずいたそうだ。佐々木さんはさらに、外へとつながる通路にン十万円かけて鉄製の柵を設置。安心して仕事ができる環境を築いた。

 ちなみに、岩手県では先述した北上市など一部の自治体が相次ぐ熊出没を受けて温泉施設なども対象に含めた熊対策の補助金支給を始めたが、青森県では農地以外の個人の店舗や住宅に対する補助金制度は実施されていない。青森県内では冬眠時期であるはずの1月から目撃例が報告されていて、今年も市街地を含めて熊の脅威にさらされることが予想される。県や自治体では熊対策費を増額させた新年度予算を組んでいるが、場合によってはさらに進んだ対策が必要になるかもしれない。


 ところで、宮木さんが遭遇した熊は、体高が1mほどだったいうからまだ子熊だろう。それでも力勝負で人間が勝てる相手ではない。幸運にも対峙した熊を撃退できた宮木さんは、それだけでも“勝った”といっていいだろう。

「(熊との格闘は)30秒もなかったんじゃないかな」と宮木さんは振り返るが、おそらくもっと短かったはずだ。死を覚悟した恐怖の時間は実際より長く感じたに違いない。

「俺も殴ったけど、人間のパンチじゃ追い払うまでいかないよね。とにかく、出会い頭にならないこと。外に出るときは、必ず周囲を確認してから出る。それしかないと思うよ」(宮木さん)

 出かけるときは忘れずに、である。

<取材・文/加賀新一郎>

【加賀新一郎】
1964年、東京都生まれ。フリーランスのライター&エディターとして総合月刊誌、経済誌、ボクシング雑誌、歴史雑誌などの分野で活動。さらに出版社勤務を経て、2022年に青森県弘前市の相馬地区(旧相馬村)に移住し、3年間、当地の地域おこし協力隊として勤務する。
退任後も弘前市に居住し、取材・執筆活動を続けている。
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