東京を代表する一大観光スポット、浅草。628年(推古天皇36年)創建されたという都内最古の寺院・浅草寺を核に、雷門周辺や仲見世商店街といったエリア全体が膨大な外国人観光客(インバウンド)を日々招き入れ続け、毎日が文字通りお祭り騒ぎである。
その浅草寺界隈の一画で長年営業してきた、とある商店群の「不法占拠」問題が、2025年12月にニュースで話題となった。
現場は浅草寺から直近にある「浅草伝法院通り商栄会」の32店舗。通りを往来する多くの観光客でにぎわい、地域でも親しまれる存在だったが、実は公道(区道)上に無許可で建物を構えていたのだ。台東区はこれを問題視して立ち退きと道路の原状回復を求め、商店側も存続のため異議申し立てや署名活動などを行っていたが、10年以上の協議を経て和解が成立。2026年の7月末までに撤退する。

商店会の現在の状態はどうなっているのか。不法占拠の商店群が成立する裏側では何があったのか。この記事では現地レポートを交えつつ、筆者なりに想像を巡らせていきたい。

浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理...の画像はこちら >>

伝法院の壁面に沿って建つ小さい和風商店群

 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
仲見世商店街から撮影した伝法院通り
仲見世通りを浅草寺エリアの縦糸とした時、そこへ横糸のように直行するのが伝法院通りである。その名の由来である「伝法院」は浅草寺の本坊(住職や上級僧侶の住居、または寺務を行う建物)であり、現在は寺運営の幼稚園が置かれているほか、敷地内には閑静な和風庭園が広がっている。
 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
普段の伝法院は一般人が立ち入れない
伝法院通りは東端の馬道通りから、西端はホッピー通りや浅草六区の交わる五叉路までをつなぐ。東西の徒歩移動に便利で、特に仲見世や浅草公会堂の近くでは「メンチカツ」「カレーパン」といったテイクアウトのほか、多くの飲食店やカフェ、小洒落たショップが立ち並び、平日でも大盛況である。
 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
浅草伝法院通り商栄会(写真左)と、他店舗(右)の境目
この通りを仲見世から六区の方向に歩いていくと、右手には2階建ての小さい店舗が続くのだが、途中からさらに小さな平屋の列へ変わる。
ここから先が浅草伝法院通り商栄会の店舗群だ。(※以下『商栄会』と記載)
 

プレハブ小屋のようだが「不法占拠」には見えない

浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
和風の扇子なども販売されている
商栄会が成立したのは、現在から半世紀近く前の1977年。店舗の一つ一つは非常に小さく、床面積に直せば三畳あるかどうか。取り扱う商材は一部の駄菓子屋を除き、衣料品・小物雑貨・小道具・アクセサリーなどの販売がメインである。
 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
商栄会の品々を覗き込んで購入する客
こぢんまりとした店舗規模がむしろ和の「粋(いき)」を感じさせる。浅草巡り中のインバウンド層がここで脚を止めて、ショッピングに興じる様子も珍しくない。例えるなら縁日の屋台や、あるいは江戸時代の市場に並んでいたであろう商店のような佇まいである。事前情報がなければ、ここが「不法占拠」だとは誰も想像しないだろう。
 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
横から見ると奥行きもなく、庇部分で店舗面積を稼いでいる
一方、商栄会の建物を側面から見ると、通常の店舗とは異質な造りにも気付かされる。まず、建物の作りは非常に簡素で、ちゃんとした建物というよりはプレハブ小屋に近い。関東大震災後の1925年(大正14年)に建てられた仲見世商店街の建築物が、低層の長屋建築ながらどっしりした安定感があるのとは対照的である。
 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
伝法院の塀(写真左)と商栄会の建物(右)の隙間
また、よく見ると伝法院の塀との間には隙間があり、ここの建物が「公道の上に建っているだけの仮小屋」であることがよく分かる。こうした建築は、都内でもここでしか見られないのではないか。


商栄会と台東区で10年以上の摩擦のうえ決着

浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
浅草公会堂(写真右・奥)と商栄会(左・手前)はすぐ近く
商栄会が「不法占拠」状態のまま成立した経緯や、その後の台東区行政との摩擦については、既に複数のニュースで解説されている。ここでは一連の経緯を簡潔に振り返っていこう。
 
1977年、伝法院の前にあった旧台東区役所を現在の上野駅近くに移設し、旧役所を文化施設(後の浅草公会堂)へ建て替える計画が持ち上がる。そこから程近い路上(現在の商栄会にあたる場所)では、既に多くの露天商が物を売っていた。当時の台東区長・内山榮一(うちやま えいいち)氏は、区画整理のため露天商達に一時立ち去りを要求。その代わり、区画整理後に彼らへ同じ場所を商業のため再提供することと、路上への店舗建設許可を「口頭で」認めたのだ。これが商栄会の成り立ちである。

この当時の詳しい資料は、商栄会と台東区とのどちらにも残っていない。店主らは商栄会の建物を自費で建設し、その場所での営業についても「区の許可済」と解釈し、数十年にわたって伝法院の隣で商売を継続。これが後年に波紋を産むこととなった。

内山元区長が逝去した2年後の2014年頃から、台東区では商栄会の不法占有状態についての協議を開始。店主らに店舗撤去などを通告するが、商栄会側は応じなかった。その後も交渉は続き、2020年5月には区側から全店舗あてに、同年6月末までの建物撤去と立ち退きを求める書面が送られたが、ここでも商栄会は応えていない。


商栄会側としては、店舗の売上げから税金を支払ってきたことや、観光地・浅草という地域作りに尽力してきたことの自負は深かったと思われる。2021年5月、商栄会は営業継続への賛同を求める署名活動を開始。商店街存続に賛成する署名1万1595筆を集め、同年8月に提出した。

2022年1月には、台東区が32店舗の所有者29人を相手に東京地裁へ提訴し、店舗の撤去と道路占有料の支払いを求めた。その後も司法を交えた話し合いは続き、2025年12月24日に東京地裁で和解が成立。2026年7月31日までに立ち退くことと、占有料に相当する損害金として、商栄会側が共同で計800万円を支払うことが決まった。

この結果について、服部征夫台東区長は「区民の財産が回復される」「判決でなく和解解決が図られたことは、双方にとってより良い結果」といった趣旨のコメントをしている。対して商栄会の西林宏章会長は「われわれは違法だとは全く思っていない」と発言。騒動が一応の決着を見たとはいえ、商栄会と行政側の溝が完全に埋まったとも言い切れない状態である。

商栄会ができたのは浅草の「低迷期」

浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
「浅草に閑古鳥が鳴いていた時代」は、現在では想像しづらい
住民/行政の対立を象徴するような場所となってしまった、浅草伝法院通り商栄会。しかし登場した時代背景に着目すると、現在ほど法執行が厳格でなかった時代ゆえの、むしろ「街や行政に求められて商栄会が誕生した」成立経緯も垣間見える。

現在の商栄会がある場所では先に述べたとおり、1970年代の区画整理より以前から露天商達の営みがあった。これは太平洋戦争時の空襲で荒廃した浅草一帯の復興・美化に貢献した人達や、空襲で自分の店を失った人達のため、浅草寺が境内近くの土地にひとり1軒ずつ出店許可したのが始まりだそうだ。
現在でこそ観光客向け・インバウンド向けの色が濃い浅草の商店群だが、成り立ちの当初は戦災復興や住民互助の意味合いが強かったと思われる。
 
しかし、日本が荒んだ戦後期を脱却して高度経済成長へ突入していくなか、逆に浅草地域は右肩下がりの衰退期へ迷い込んでしまう。当時は都心部の西側で渋谷・新宿・池袋などのターミナル駅が急成長。そのため23区内の居住人口も東から西へと移動し、多くの若者達が都心西側へ遊びに行くのをよそに、浅草・上野・両国といった下町エリアは求心力を失っていたのだ。

「その後、盛り場は日比谷や銀座に分散し、昭和33年の売春防止法の施行が浅草にとって大打撃となり、新宿や渋谷など新しい繁華街にヤング層を中心に流れていくことになる。昭和50年代になると冒頭にわが国最古の常設映画館電気館が閉じ、浅草六区の興行街がぐんと縮小されていく。訪れる観光客もほとんどが浅草寺参詣と仲見世中心の年寄りで、それも外国人が目立ってふえてくる。」(中田和昭『写真で歩く 浅草の昭和 残像の人情時代』彩流社(2009年) 岡井耀毅による序文より抜粋 ※漢数字は読みやすさを考慮してアラビア数字に変更)
 
浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
現在の隅田川は水質改善が進み、川沿いも綺麗に整備されている
昭和中期、テレビという新しい娯楽が一般家庭へ急速に普及していくなか、旧来の興行を中心とした浅草の街並みは「古臭い」と見なされるようになっていた。また、現在でこそ和やかな水辺空間となっている浅草近くの隅田川沿いも、かつてはいわゆる「カミソリ堤防」で川と地域が隔絶され、加えて工場排水・生活排水汚染でさらに浅草の印象を悪化させていた。初詣や三社祭のような行事を除けば浅草には人通りもまばらな、令和の現在からすれば信じられないように寂しい時期もあったのである。

「アイデア区長」「人情家」内山榮一氏の狙いとは

浅草のど真ん中に「40年続く不法占拠」があった。昭和の“義理人情”で残されたアートは今夏、見納め
商栄会のシャッターアートとも、間もなくお別れである
厳しい状況を浅草の地域住民も行政も座して眺めているだけではなく、様々な取り組みが行われた。例えば1968年には、浅草地域の住民や商店を中心に「浅草おかみさん会協同組合」が結成され、浅草に人を呼び戻すため「浅草サンバカーニバル」といった町おこしイベント・事業を数多く開催していく。加えて、こうした地域振興を全力で後押ししたキーマンが、商栄会の成立にも深く関わった内山榮一元台東区長である。


内山元区長は上野の重要文化財「旧東京音楽学校奏楽堂」の保存や、あの「隅田川花火大会」の復活など多種多様な文化活動に携わり、独創的な施策から「アイデア区長」とも呼ばれた人物である。そして、その元区長の采配によって低迷~復活期の浅草に出来上がったのが、浅草伝法院通り商栄会であった。ここでどんなやり取りがあったかは区・商栄会の双方に記録がなく、想像に依るしかない部分が大きい。

恐らくは露天商を杓子定規に立ち退かせてしまうより、たとえ法的にグレーであっても浅草独自の商業文化を温存する方が、それが人を呼んで地域振興のためになると元区長は判断したのではないだろうか。また、商栄会側は土地使用料を支払う意志を見せていたが、これについても元区長は「そんなもんはいらない」と断ったと言われている。必ずしも豊かではない店主達の生活に配慮したと思われ、人情味を感じさせるエピソードだ。

その後の商栄会を含む浅草エリアの復権と、歴史・文化・国籍が交錯する観光地としての大発展はご存じのとおり。内山榮一氏は1991年に引退、2007年に台東区名誉区民となり、2012年4月に100歳で逝去。その後すぐの2014年から商栄会の不法占拠問題が表面化してきたのは、皮肉な時代の移り変わりを感じさせる。伝法院の塀に沿うようにして営業する小さな路上店舗は、人影が減って寂れつつも新時代へ向けて力を溜めていた「昭和の浅草」の名残なのだ。
 
ともあれ、浅草伝法院通り商栄会は2026年7月で見納めだ。店舗が撤去された後の場所がどう活用されるかは分からないが、客足の多さや商業的ポテンシャルを考えると、只の道路としてそのまま放置というのも勿体無く思える。
例えば適切な道路使用許可を取ったうえで、移動式の路上販売やキッチンカーを並べる方式などはイケるかも知れない。これからは台東区と地域が仲良く協力しながら、もちろん合法的な形で、新旧・聖俗併せた「令和の盛り場」としての利用が望まれる。

<TEXT/デヤブロウ>

【参考書籍 ※敬称略】
中田和昭『写真で歩く 浅草の昭和 残像の人情時代』彩流社(2009年)

【参照サイト】
伝法院通り“不法占拠訴訟”退去で「和解」 浅草寺周辺で営業の32店舗、数十年の歴史に幕 (TOKYO MX)
浅草寺“真横”に「不法占拠」32店舗、約40年“黙認”も…なぜ、いま裁判に? 揉める“きっかけ”となった「元区長」鶴の一声 (弁護士JPニュース)
「軽々と考えてはほしくない」存続危機の浅草商店街 区に署名1万筆を提出 (日刊スポーツ)
浅草商店街存続危機「そんなもんいらない」44年前アイデア区長ひと言発端 (〃)
今では「1年中お祭り状態」の浅草にも≪戦後の低迷期≫があった。そこから”一大インバウンド観光地”になるまでをアナログ写真で振り返る (東洋経済オンライン)

―[東京“不法占拠”をめぐる旅]―

【デヤブロウ】
東京都在住。2024年にフリーランスとして独立し、ライター業およびイラスト業で活動中。ライターとしては「Yahoo!ニュース」「macaroni」「All Aboutニュース」などの媒体で、東京都内の飲食店・美術館・博物館・イベント・ほか見所の紹介記事を執筆。プライベートでも都内歩きが趣味で、とりわけ週2~3回の銭湯&サウナ通いが心のオアシス。好きなエリアは浅草~上野近辺、池袋周辺、中野~高円寺辺りなど。X(旧Twitter):@Dejavu_Raw
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