現場は浅草寺から直近にある「浅草伝法院通り商栄会」の32店舗。通りを往来する多くの観光客でにぎわい、地域でも親しまれる存在だったが、実は公道(区道)上に無許可で建物を構えていたのだ。台東区はこれを問題視して立ち退きと道路の原状回復を求め、商店側も存続のため異議申し立てや署名活動などを行っていたが、10年以上の協議を経て和解が成立。2026年の7月末までに撤退する。
商店会の現在の状態はどうなっているのか。不法占拠の商店群が成立する裏側では何があったのか。この記事では現地レポートを交えつつ、筆者なりに想像を巡らせていきたい。
伝法院の壁面に沿って建つ小さい和風商店群
プレハブ小屋のようだが「不法占拠」には見えない
商栄会と台東区で10年以上の摩擦のうえ決着
1977年、伝法院の前にあった旧台東区役所を現在の上野駅近くに移設し、旧役所を文化施設(後の浅草公会堂)へ建て替える計画が持ち上がる。そこから程近い路上(現在の商栄会にあたる場所)では、既に多くの露天商が物を売っていた。当時の台東区長・内山榮一(うちやま えいいち)氏は、区画整理のため露天商達に一時立ち去りを要求。その代わり、区画整理後に彼らへ同じ場所を商業のため再提供することと、路上への店舗建設許可を「口頭で」認めたのだ。これが商栄会の成り立ちである。
この当時の詳しい資料は、商栄会と台東区とのどちらにも残っていない。店主らは商栄会の建物を自費で建設し、その場所での営業についても「区の許可済」と解釈し、数十年にわたって伝法院の隣で商売を継続。これが後年に波紋を産むこととなった。
内山元区長が逝去した2年後の2014年頃から、台東区では商栄会の不法占有状態についての協議を開始。店主らに店舗撤去などを通告するが、商栄会側は応じなかった。その後も交渉は続き、2020年5月には区側から全店舗あてに、同年6月末までの建物撤去と立ち退きを求める書面が送られたが、ここでも商栄会は応えていない。
商栄会側としては、店舗の売上げから税金を支払ってきたことや、観光地・浅草という地域作りに尽力してきたことの自負は深かったと思われる。2021年5月、商栄会は営業継続への賛同を求める署名活動を開始。商店街存続に賛成する署名1万1595筆を集め、同年8月に提出した。
2022年1月には、台東区が32店舗の所有者29人を相手に東京地裁へ提訴し、店舗の撤去と道路占有料の支払いを求めた。その後も司法を交えた話し合いは続き、2025年12月24日に東京地裁で和解が成立。2026年7月31日までに立ち退くことと、占有料に相当する損害金として、商栄会側が共同で計800万円を支払うことが決まった。
この結果について、服部征夫台東区長は「区民の財産が回復される」「判決でなく和解解決が図られたことは、双方にとってより良い結果」といった趣旨のコメントをしている。対して商栄会の西林宏章会長は「われわれは違法だとは全く思っていない」と発言。騒動が一応の決着を見たとはいえ、商栄会と行政側の溝が完全に埋まったとも言い切れない状態である。
商栄会ができたのは浅草の「低迷期」
現在の商栄会がある場所では先に述べたとおり、1970年代の区画整理より以前から露天商達の営みがあった。これは太平洋戦争時の空襲で荒廃した浅草一帯の復興・美化に貢献した人達や、空襲で自分の店を失った人達のため、浅草寺が境内近くの土地にひとり1軒ずつ出店許可したのが始まりだそうだ。
しかし、日本が荒んだ戦後期を脱却して高度経済成長へ突入していくなか、逆に浅草地域は右肩下がりの衰退期へ迷い込んでしまう。当時は都心部の西側で渋谷・新宿・池袋などのターミナル駅が急成長。そのため23区内の居住人口も東から西へと移動し、多くの若者達が都心西側へ遊びに行くのをよそに、浅草・上野・両国といった下町エリアは求心力を失っていたのだ。
「その後、盛り場は日比谷や銀座に分散し、昭和33年の売春防止法の施行が浅草にとって大打撃となり、新宿や渋谷など新しい繁華街にヤング層を中心に流れていくことになる。昭和50年代になると冒頭にわが国最古の常設映画館電気館が閉じ、浅草六区の興行街がぐんと縮小されていく。訪れる観光客もほとんどが浅草寺参詣と仲見世中心の年寄りで、それも外国人が目立ってふえてくる。」(中田和昭『写真で歩く 浅草の昭和 残像の人情時代』彩流社(2009年) 岡井耀毅による序文より抜粋 ※漢数字は読みやすさを考慮してアラビア数字に変更)
「アイデア区長」「人情家」内山榮一氏の狙いとは
内山元区長は上野の重要文化財「旧東京音楽学校奏楽堂」の保存や、あの「隅田川花火大会」の復活など多種多様な文化活動に携わり、独創的な施策から「アイデア区長」とも呼ばれた人物である。そして、その元区長の采配によって低迷~復活期の浅草に出来上がったのが、浅草伝法院通り商栄会であった。ここでどんなやり取りがあったかは区・商栄会の双方に記録がなく、想像に依るしかない部分が大きい。
恐らくは露天商を杓子定規に立ち退かせてしまうより、たとえ法的にグレーであっても浅草独自の商業文化を温存する方が、それが人を呼んで地域振興のためになると元区長は判断したのではないだろうか。また、商栄会側は土地使用料を支払う意志を見せていたが、これについても元区長は「そんなもんはいらない」と断ったと言われている。必ずしも豊かではない店主達の生活に配慮したと思われ、人情味を感じさせるエピソードだ。
その後の商栄会を含む浅草エリアの復権と、歴史・文化・国籍が交錯する観光地としての大発展はご存じのとおり。内山榮一氏は1991年に引退、2007年に台東区名誉区民となり、2012年4月に100歳で逝去。その後すぐの2014年から商栄会の不法占拠問題が表面化してきたのは、皮肉な時代の移り変わりを感じさせる。伝法院の塀に沿うようにして営業する小さな路上店舗は、人影が減って寂れつつも新時代へ向けて力を溜めていた「昭和の浅草」の名残なのだ。
ともあれ、浅草伝法院通り商栄会は2026年7月で見納めだ。店舗が撤去された後の場所がどう活用されるかは分からないが、客足の多さや商業的ポテンシャルを考えると、只の道路としてそのまま放置というのも勿体無く思える。
<TEXT/デヤブロウ>
【参考書籍 ※敬称略】
中田和昭『写真で歩く 浅草の昭和 残像の人情時代』彩流社(2009年)
【参照サイト】
伝法院通り“不法占拠訴訟”退去で「和解」 浅草寺周辺で営業の32店舗、数十年の歴史に幕 (TOKYO MX)
浅草寺“真横”に「不法占拠」32店舗、約40年“黙認”も…なぜ、いま裁判に? 揉める“きっかけ”となった「元区長」鶴の一声 (弁護士JPニュース)
「軽々と考えてはほしくない」存続危機の浅草商店街 区に署名1万筆を提出 (日刊スポーツ)
浅草商店街存続危機「そんなもんいらない」44年前アイデア区長ひと言発端 (〃)
今では「1年中お祭り状態」の浅草にも≪戦後の低迷期≫があった。そこから”一大インバウンド観光地”になるまでをアナログ写真で振り返る (東洋経済オンライン)
―[東京“不法占拠”をめぐる旅]―
【デヤブロウ】
東京都在住。2024年にフリーランスとして独立し、ライター業およびイラスト業で活動中。ライターとしては「Yahoo!ニュース」「macaroni」「All Aboutニュース」などの媒体で、東京都内の飲食店・美術館・博物館・イベント・ほか見所の紹介記事を執筆。プライベートでも都内歩きが趣味で、とりわけ週2~3回の銭湯&サウナ通いが心のオアシス。好きなエリアは浅草~上野近辺、池袋周辺、中野~高円寺辺りなど。X(旧Twitter):@Dejavu_Raw
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