力道山が亡くなる直前、猪木は道場でスパーリングをする機会があったが、簡単に力道山のバックを取れてしまったことで、英雄の衰えを感じたという。力道山の年齢は30代後半、当時のスポーツ界の常識でいえば、一線を引いていても不思議ではなかった。

※本記事は『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)に収録されている「アントニオ猪木が語る師・力道山」の箇所を適宜抜粋したものです。

アントニオ猪木が回想する力道山との“最後の会話”。「急死した...の画像はこちら >>

理不尽な仕打ちに耐えかねて…

「プロレスラーとしても経験を積んでいってますから、自分なりの自我が芽生えてくるわけですね。親父はなぜ怒るんだろうか、なぜ殴るんだろうか……っていう疑念を抑え切れなくなるんですよ。殴られたりするのはまあどうでもいいんですよ。でもその理由がわからない。あまりにも仕打ちが理不尽なので、包丁で刺し殺してやろうか、と思い立ったこともありましたからね。

一度プロレスをやめようとしたこともあります。その時は豊登さんに止められまして、もうちょっと頑張ってみろと。豊登さんにはかわいがってもらったんですけど、まあ博打好きでね。のちに豊登さんと団体を立ち上げることになって(66年に旗揚げした東京プロレス)、俺も財産を失ってしまったんですけどね(笑)。誰にどう出会ったかによって人生がどう変わるのか。そういう意味でいえば、力道山との出会いはとても大きいんですが、俺のその後の人生を決定づける運命の日が訪れるんです」

運命を変えた力道山との“最後の会話”

1963年(昭和38年)12月8日の昼下がり──猪木は力道山が住むリキアパートの下にあった合宿所で一人電話番をしていた。前日の浜松で地方巡業が終わったこともあり、昼間の合宿所に猪木以外は人っ子一人いなかった。

「合宿所の入り口に電話があったんですが、マンションの部屋にいる親父から『若い衆はいるか?』と電話があったんです。
『自分だけです』と答えると『部屋に上がってこい』と。

親父の部屋に駆けつけると、親父は高砂親方(元横綱の前田山)と二人で昼間から酒を飲んでいました。当時最高級の酒だったジョニ黒(ジョニーウォーカー ブラックラベル)の瓶がテーブルの上にいくつも転がっていた。グラスにジョニ黒がなみなみと注がれて、お前も飲めと。それまで親父の部屋には何回か入ったことがあるんですけど、酒を飲まされる機会は初めてで。

親父の言われるがままに、駆けつけ三杯をあおった時でした。高砂親方が『リキさん、コイツはいい顔をしてるね?』と向けると、親父がにっこりと頷きながら『そうだろ?』と──。

あの一言に、俺は救われました。あの誇らしげな親父の表情にも。

その頃の俺は反抗期でしたし、外国人レスラーがいろいろな情報をくれるわけです。今の生活を捨てて、アメリカに渡って一人で生きていこうかなと思っていたんですよ。親父に評価されているのかどうかもわからない。
褒められたことは一度もない。『バカ野郎』と殴られてばかりでしたから。あの一言がなければ、俺は日本を出ていって、その後の日本のプロレス界も違ったものになっていたでしょうね」

ナイフで刺されてから6時間後に病院へ

その日の晩、力道山は赤坂のナイトクラブ「ニューラテンクォーター」内で暴力団員と足を踏んだ、踏まないから口論となり、もみ合いの末、ナイフで腹部を刺された。

「俺はあの夜、青山のボウリング場で遊んでいたんですよ。一緒にいたのは若三杉というよくかわいがってもらっていた関脇でした。ボウリング場から合宿所まではタクシーで10分くらい。ボウリングを終えて帰ろうとすると、合宿所に上がる坂が警察によって封鎖されてたんです。なんだなんだって聞いても警察は答えてくれない。仕方なくタクシーを降りて合宿所まで歩いたら先輩たちが大騒ぎしてて。中には日本刀を持ち出して興奮している先輩もいました。あとから聞く話が多くて、何が起きてるかわからなかったんです」

事件直後のリキアパート周辺には、力道山のボディガード役だった暴力団の組員たちと、刺傷した側の暴力団の組員が事件をめぐって睨み合いを続けるという緊迫状態に陥っていた。幸いにも軽傷で済んだ力道山は、犯人が所属する暴力団の親分から直接謝罪を受けたことで騒動は収まったが、力道山が病院に向かったのは明け方の4時頃だった。応急処置が済まされていたとはいえ、ナイフで刺されてから6時間近くが経過していた。


「山王病院に入院したんですが、あそこは本来は産婦人科なんですよね。入院する病院が違うんじゃないかという話もあって。手術は無さに済んで、俺も1週間近く山王病院に通いましてね。親父がベッドの上で暴れないように足を抑えつけてないといけないんです。暴れちゃうと縫った傷口がまた開いてしまいますから。まさか親父をベッドに縛るわけにもいかないですからね」

暴飲暴食の都市伝説、真相は…

手術が成功したはずの力道山が急死した理由は、腹膜炎で水分厳禁だったのにサイダーや寿司などを暴飲暴食したから……とまことしやかに語られている。力道山夫人・田中敬子はその著書でそのような事実はなく「退院したらビールを飲みたい」という言葉が余計な誤解を招いたのではないかと綴っていたが、猪木もまたその噂を否定した。

「そんなことはしてなかったと思いますね。親父の容態は日に日によくなっていましたから。だから死んだことは本当にビックリしたんですが……あれは亡くなる当日ですね。一緒に病院に通っていた平井選手(ミツ・ヒライ)に『もしかしたら、こういう人って死ぬ時は早いんだよなぁ』って言ったんです。彼がどう反応したかは覚えてないですけど、人間っていうのは頑丈であればあるほど、どこかに弱さがあるもんじゃないですか。

その晩、親父は亡くなってしまったんです。
低血糖な人だったんですが、血圧を上げる薬がその病院になかったんですよ。別の外科病院に薬を取りに行ってる間に亡くなってしまった」

力道山の解剖に立ち会った猪木

1963年(昭和38年)12月15日、力道山は2度目の腹膜炎の手術を無事に終えたが、その夜に容態は急変。21時50分頃、帰らぬ人となった。

「亡くなった時、俺は病室とは別の部屋にいたはずですね。その後、親父は慶應大学病院に運ばれて解剖されたんですが、俺はその現場に立ち会ってますからね。解剖室には入ってないんですけど、当時の病院は古くて、俺は背が高いから部屋の上窓から解剖してるところが見えちゃうんですよ。親父の体が切られているところをね……。その晩がお通夜だったのかな。大騒ぎでしたね。

20歳になれば大人なんだけど、俺たちはまだ世間を知らないわけですよ。財産とか組織に関しては無頓着で。親父が死んで悲しみに暮れている一方で、今後に関する争いも起きていたわけですからね。嫌な世界を見たというか。
死んだばかりだというのに、そんな揉め事が起きてしまう理由もわかります。多くの人間が、力道山が亡くなったと聞いて、もうプロレスがなくなると思ったんじゃないですか。力道山がいないプロレスは、もう終わりだと。

世間をよく知らなかった俺ですが、あの時、一つだけ思ったことは、プロレスはなくならない、ということです。なんで?って言われてもわからないんですけど、そう思いたんです」

怒り、怨念こそが力道山のエネルギー

力道山がつくり上げたプロレスは、力道山が不慮の死を遂げても消えることはなかった。力道山の弟子たちがプロレスの灯を絶やすことはせず、猪木はプロレスというジャンルを超えた挑戦や世間を振り向かせる試みを繰り返すことで、現代のプロレスや格闘技の礎を築くことになった。その原点は力道山の魂から始まっている。

「戦後のスーパーヒーローは何人も生まれたと思いますけど、力道山という存在はそんな比じゃないというね。

非常識で生き抜いたあの価値観がいいか悪いかを別にして、俺は親父に出会ってなければ違った人生を送っていたんでしょう。興行とは何か?──を親父から教わったわけではないんですけど、興行にとって必要な絶対的な派手さ、パフォーマンスのうまさ。池に石を投げてポチャンと沈んでしまうのか、それとも大きな波紋を起こしてどんどん広がっていくのか。親父のあの生き方から、そういうメッセージを受け取りました。


もちろん力道山本人がどう思っていたのかはわかりません。でも、多くの国民はリングで闘う力道山の姿や、あの空手チョップから元気をもらっていたわけです。再び立ち上がっていく自分たちと重なり合わせてね。

では、あの力道山のエネルギーとはなんだったんだろう? と。相撲時代には、その出自から差別を受けたことで髷を切って廃業したという話があり、そうやって虐げられてきたなか、思いもよらない形で戦後日本のスーパースターになってしまった。親父も非常識、矛盾の中で生きてきたんです。その怒り、怨念こそが親父のエネルギーだったんでしょう」

戦後日本の復興の象徴だった力道山は、同時に戦後の日本社会に潜んでいた差別や混沌の顔を併せ持っていた。その力道山の表と裏の顔から発せられた、ほとばしる熱を受け止めていた猪木も一度は祖国を諦め、再び祖国に夢を見るという因果な運命を抱えていた。

「俺が現役の晩年に、親父の祖国・北朝鮮で『平和の祭典』(95年4月)を開き、リングに上がって試合をしたのは、親父との“最後の会話”があったからですよ。親父には望郷の念があったんだと思いますが、あの当時は叶わなかった。今思えば、あの『そうだろ?』の一言と満面の笑みは、親父が残した遺言状みたいなものだったんです」

アントニオ猪木が回想する力道山との“最後の会話”。「急死した理由は暴飲暴食」の都市伝説にも言及
『証言 アントニオ猪木 絶望と復活の闘魂人生』(宝島社)
<取材・文/ジャン斉藤>
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