※本記事は、『証言「UWF」道場』(双葉社)より適宜抜粋したものです。
UWF道場で練習する機会は「ほとんどなかった」
第一次UWFの中心選手は、その佐山を筆頭に、藤原喜明、前田日明、髙田延彦(当時・高田伸彦)、木戸修、山崎一夫ら。前田、髙田、山崎は、それぞれ若き日の佐山と同じく、新日本プロレスの道場で藤原喜明とのスパーリングで鍛えられた精鋭。木戸修は、UWFのレスラーたちの精神的支柱でもあった“神様”カール・ゴッチに日本プロレス時代から師事したゴッチの“ムスコ”だ。
佐山もそんな彼らとともにUWF道場でスパーリングを繰り返し、切磋琢磨しながら理想のシューティング・プロレスの確立を目指していたと思われがちだが、実情は違った。当時の佐山のベースはあくまでタイガージム(スーパータイガージム)。佐山がUWF道場で練習する機会はほとんどなかったという。
「UWFの道場には何回か行ったかもしれませんが、基本的にそこで練習するということはなかったですね。新日本の若手だった頃みたいに藤原さんや前田と道場でスパーリングすることもなかったです。スーパータイガージムで山ちゃん(山崎一夫)や宮戸(優光。当時・成夫)を相手に練習することはありました。
そもそも当時は忙しくて、自分の練習をする時間もあまりなかったんです。スーパータイガージムでも、格闘技、シューティングを教えられる先生を育成するための指導が中心で、自分のための練習ではなかったんです。
UWFはUWFで試合は一生懸命やってました。プロレスファンに少しずつ格闘技とはどういうものなのかを理解してもらうためにルール整備をしたり、UWFのプロレスの打ち出し方を考えたりもしました。なんとかUWFを軌道に乗せるためにいろいろなことをやりましたから。
でも、UWFにはできるだけ協力していましたが、僕にとっての本業は、スーパータイガージムでシューティングという新格闘技を確立することでした。新しい格闘技をつくるための技術体系を常に考えて、ルールづくりも大変だった。打撃、寝技、レスリングなど、すべての要素が入ってくるので、いろんな格闘技を勉強しなきゃいけなかったですしね。僕もやり出したら凝るほうですから、リングに上がってない時はそっちに集中していました。当時は本当に寝る時間もなかったです」(佐山聡、以下同じ)
藤原、前田、髙田らと考えは“違っていた”
第一次UWFにおいて藤原は、ゴッチから受け継いだレスリング、関節技を追求する職人であり、その技術を第一次UWFのリングで遺憾なく発揮した。そして前田、髙田は自分なりの“格闘技としてのプロレス”という理想を模索していた。藤原、前田、髙田らに共通することは、第一次UWFの試合のために腕を磨き強くなろうとしていたことだ。プロレスラーとして当然のことだろう。しかし、当時の佐山の考えは彼らと似ているようで違った。第一次UWFには自分のプロレスラーとしての才能やアイデアを提供することで協力するけれど、目指していたのは“理想のプロレス”ではなく、シューティングという新しい格闘技の確立だ。
格闘プロレスを追求する藤原たちと、第一次UWFのリングでシューティング・プロレスをやりながら、新たな格闘技を追求していた佐山。
普段は第一次UWF道場とスーパータイガージムという別々の場所を拠点とした中心選手たちが、似て非なるスタンスで同じリングに上がっていたのが第一次UWFだった。
新人の頃は道場がすべてだった
佐山聡がプロレスラーでありながら、「打・投・極」を合わせたまだ見ぬ新しい格闘技を夢見始めたのは、新日本の若手レスラーだった時代。合宿所の部屋の壁に「真の格闘技は、打撃に始まり、組み合い、投げ、関節技で終わる」と書いた色紙が貼られていたことは有名だ。佐山が新日本でデビューしたのは、76年5月28日。伝説的なアントニオ猪木vsモハメド・アリが行われる1ヶ月前のことだった。猪木が一連の異種格闘技戦を行っていた時代の真っ只中で新人生活を送った佐山は、そこに強い影響を受けた。
新日本の道場では3年先輩の藤原と毎日のように“セメント”と呼ばれた寝技のスパーリングを繰り返した。しかし、新日本道場での猛練習だけでは飽き足らず、合同練習後、先輩たちには内緒で極真空手出身の“鬼の黒崎”こと黒崎健時が設立したキックボクシングの目白ジムにも通った。
「目白ジムに通ってた頃は、新日本の道場では朝10時から14時くらいまで練習をやって、ちゃんこを食べて少し寝たあと、目白ジムに行ってキックボクシングの練習をやってました。それで帰ってきたら、夜はまた新日本の道場でウエイトトレーニングをやっていたので、新人の頃は道場がすべてでしたね」
当時、新人レスラーがキックボクシングジムに通うというのはきわめて異例のこと。現在と違って当時のプロレスには、キックボクシング的な蹴りはほとんど使用されていなかった。それでも佐山が目白ジムに通ったのは、キックの技術を身につけること以外にも理由があった。
「目白ジムに通い始めた当初の目的は、自分が打撃を身につけるというよりも、打撃をかいくぐってタックルで入っていくことを考えていました。そういうチャンスがあるのかどうかを確かめたかったんですね。実際、キックボクシングとレスリングの間合いはまったく違うので、それを経験できたことはのちにすごく役立ちました」
総合格闘技は寝技と打撃の両方ができるだけでは完成しない。それらを合わせて総合独自の技術確立が必要となってくる。佐山は10代の頃からすでにそれを考え、研究していたのだ。
猪木から「格闘技の第1号選手にする」と
佐山の格闘技への探究心は、新日本の総帥・猪木も認めるところだった。佐山は猪木の付き人時代、理想の格闘技について語ることもあったという。「猪木さんもすごく格闘技のことを考えている人だったので、僕の話をよく聞いてくれたんです。それでチャック・ウェプナーとの異種格闘技戦(77年10月25日、日本武道館)には、僕が試作していたオープンフィンガーグローブを使ってくれたりしました。
それである時、猪木さんに『新日本の中に、格闘技部門をつくったらどうですか?』みたいな話をしたら、しばらくしてアメリカのマーシャルアーツのルールブックみたいなものを持ってきたんですよ。それで『新日本ではいずれ格闘技をやる。お前を第1号選手にする』と言ってもらえたんです。若かった当時の僕はそう言ってもらえたことですっかりその気になって、有頂天になりましたね。
「タイガーマスク」として白羽の矢が
しかし、それは猪木と佐山の間での個人的な口約束でしかなく、デビューから2年経った78年春、海外遠征の話が持ち上がる。デビュー2年で早くも海外に出るというのは、当時の新日本では異例のことで、佐山への期待の大きさがうかがえたが、その遠征先は皮肉にも格闘技とは真逆ともいえるショー的要素の強いルチャ・リブレの本場メキシコだった。
「メキシコ行きを聞いた時は、ショックでした。意味がわからなかった。もう自分はこれから格闘技戦をやるんだとばかり思っていたし、そういう練習ばかりしてましたから。でも、会社命令だから断れないし、『新日本のために頑張ろう』と、気持ちを切り替えてメキシコに行きました。ただし、向こうに行っても格闘技の練習は欠かさない、ということを自分に課していました。メキシコはボクシングが盛んだから、ジムに行くとたいていサンドバッグがあるんです。だから暇さえあれば、そのサンドバッグを使って蹴りの練習ばかりしていましたね」
本意ではなかったメキシコ遠征だったが、ここで佐山はプロレスラーとしての才能を存分に発揮する。当時の新日本では海外武者修行中の若手に給料が支払われることはなく、自分でファイトマネーを稼がなければいけなかった。そのため、ルチャリブレにも取り組み、メキシコでNWA世界ミドル級王者にもなった。
さらにゴッチのブッキングで80年にイギリスに転戦すると、“ブルース・リーの従兄弟”というキャラクターのサミー・リーとして、ここでも人気が爆発。佐山は誰よりも格闘技志向であったにもかかわらず、プロレスの才能がありすぎたため各国で大スターとなったのだ。
そして82年春、佐山に帰国命令がくだる。テレビ朝日系でアニメ『タイガーマスク二世』の放送開始に合わせて、実際のリングでもタイガーマスクを登場させる企画として、佐山に白羽の矢が立てられたのだ。
離れていったストロングスタイル
佐山扮するタイガーマスクは、のちに「四次元殺法」と称される、これまで見たこともないような斬新な動きで観客の度肝を抜き、81年4月23日蔵前国技館でのダイナマイト・キッドとのデビュー戦から瞬く間に人気が爆発。しかし、当の佐山は複雑な思いを抱えながらリングに上がっていた。「タイガーマスクになってからは個人的な感情より新日本のことを考えていました。新日本のために頑張ろうという気持ちです。僕は海外遠征中も、そして日本に帰ってきてタイガーマスクになってからも、猪木さんの『お前を格闘技の第1号選手にする』というそのひと言を信じてやっていましたから。『いつかは格闘技を』という思いでプロレスをやってきていたんですよ。でも、タイガーマスクを始めて1年ぐらいして、『俺はここにいても、格闘技はできないんだな』と完全に気づいてしまったんです。
僕自身、帰国してタイガーマスクになってからは、格闘技の練習はほとんどできなくなっていました。
商売繁盛で、そして肝心の猪木さんもアントン・ハイセルの資金繰りで手一杯で、病気(糖尿病)でもあったし、僕が格闘技をやる話なんかおくびにも出せない状況でした。僕に求められてるのは、とにかくタイガーマスクであることだったので、『ああ、格闘技をやるのは、もう無理なんだな……』と。気持ちがサーッと引いていってしまったんです。
あの頃はもう新日本全体がプロレスブームに浮かれてしまっていて、興行優先、視聴率優先、『とにかく派手なことをやってくれ』みたいな感じになってしまっていた。タイガーマスクブームでお客さんが入れば入るほど、新日本が僕の理想からかけ離れていってしまうのが心苦しかった。
だから僕はタイガーマスクをやめる時、『プロレスのためにやめる』と言ったんですよ。このままじゃプロレスがダメになると思ったからです。
新日本を退団したあと、猪木さんの自宅で話をする機会があったんですが、その時、『プロレスを疎かにしないでください。プロレスに戻ってきてください』と、自分の思いを伝えたんです。僕は格闘技の道に進むけれど、猪木さんの手で新日本をストロングスタイルに戻してほしかったんです」
<談/佐山聡 撮影/タイコウクニヨシ>
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