東京で芸人を続けるために始めたバイトが、いつしか生活の中心に。お笑いコンビ「ソラシド」の本坊元児さん(48)はそんな生活を変えたいと一念発起し、40歳のとき、縁もゆかりも無い山形に移住した。

地元になじんで、仕事を着実に増やしていた最中に、コロナ禍に突入し、仕事が激減。そんななかでも農業や養蜂に挑み、仕事の幅を増やしていく。苦節の芸人生活を経てから移住まで、想定外の人生をどうサバイバルしてきたのかを聞いた。

藁をもつかむ思いで移住

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「今は芸人を始めたときに、一切考えてなかった生き方をしています」

お笑いコンビ「ソラシド」のボケ担当、本坊元児氏はこう話す。’18年10月、「山形県住みます芸人」として山形に移住し、‘26年で9年目を迎えた。

売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
(上)デビュー時に相方・水口靖一郎さんと撮影した1枚。(下)NSC大阪校20期で同期の麒麟・川島明と、2005年に撮影
出身は愛媛県。NSC大阪校の出身で、同期には麒麟やアジアンなどがいる。約10年間、大阪で活動したのち、2010年に東京に拠点を移した。しかし上京後も芸人としての仕事は、吉本興業の携帯アプリでのネタ披露が月1回ある程度。漫才の舞台には上がれない、苦しい日々が続いていた。

売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
大工時代。下の写真は、展示会場設営の現場で行灯を仕込んでいるときのもの。現場は展示会や撮影所が多く、「芸人の真裏の仕事に就いてしまった」と感じていたという
本業の収入が見込めないなかで、代わりに精を出したのが、大工の仕事だ。展示会の設営撤去をしたり、建築・解体の現場で砕いたコンクリートなどの廃棄物を現場の外へと搬出したりする「ガラ出し」と呼ばれる仕事に携わり、月のうち28日がバイトで埋まることもあった。

「『芸人を辞めよう』と考えたことも、何度もありました。
でも相談をする度に、相方の水口が止めてくれた。それがなければ、とっくに辞めていたと思います」

転機が訪れたのは’18年。吉本興業が全国47都道府県で行う地域密着型プロジェクト「住みます芸人」のオファーを受けたことだった。縁もゆかりもない山形に拠点を移すことに当初は納得していなかったものの、自身が置かれていた状況への焦りが後押しになった。

「当時は、東京で芸人をするためのバイトのはずが、生活のためのバイトになっていた。ただでさえ仕事が少ない状況下で、何か変えられへんかなという思いはあって。だからこそ、移住は藁をもつかむような思いでした」

山形県民は「自分を色眼鏡で見ていない」という気づき

売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
東京から山形に引越してきたときの1枚。NSCで同期だったアジアン・馬場園梓が引越しを手伝ってくれた
長年苦労を重ねてきたこともあり、移住当初は、疑心暗鬼の状態だった。

「ずっと売れてない芸人やったから、世間からもそう見られていると頑なに思ってたんです。山形の人達も『心の中で小バカにしてるんやろな』と思っていて、はじめは誰にも心を開けなかったんですよね」

しかし、地元民と交流するなかで、その見方は少しずつ変わっていく。最初のきっかけを与えてくれたのは、引っ越しの荷物を運んでくれた運送業の配達員だった。

「僕のことを知ってはいたもののあえて何も言わず、後日、道に迷ったときに助けてくれたんですよ。そこから『山形のこと、いろいろ教えてください』と友人としての交流が始まりました。彼以外も含めて、実際に接してみると、一人の『人間』と扱ってくれる人ばかりでした」

「思うほど、世間の人は自分のことを色眼鏡で見ていない」――そのような気づきが生まれて以降は、人間関係の幅も広がっていった。


「移住前には『仕事をくれる地元の社長に気に入られないと』と言われることもありました。でも、地元企業の社長のご機嫌取りじゃ結局根付けないし、意味ないやんって。だからこそその後は、地元の人と積極的に交流するようにしました」

食べるための農業も、笑いの種にする

売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
(上)2021年夏に撮影。とうもろこしの人工授粉をしているときのもの(下)西川町で借り受けた、月100円の畑付き古民家
営業などを含めて地元での仕事が順調に増えていたなか、3年目の’20年に再びピンチが訪れる。国内で新型コロナウイルスの感染が拡大。対面の営業仕事はすべてキャンセル。テレビ出演もリモートとなるなど、それまでの仕事が軒並み止まってしまったのだ。

当時、アルバイトとして働いていたパン屋でも、客足が伸び悩み、契約を打ち切られる始末だった。月給が2万円を切る月もある中で、手を差し伸べてくれたのもやはり地元の人々だった。

「さしあたっての食糧確保に農業でも始めようかと思っていたら、日本百名山である『月山』(がっさん)のある西川町に住む方が、月100円で畑付きの古民家を貸してくれたんです」

売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
売れない芸人が40歳で山形に移住、「月給が2万円を切る月も」苦境を乗り越えるまで。同期は麒麟やアジアン…「辞めよう」と何度も考えた
雪下大根を収穫している風景(2020年冬撮影)(下)いんげんとししとうをマルシェで販売していた(2021年9月撮影)
山形市内の自宅から古民家と畑に通って、ジャガイモを作り始めた。当初は「カレーにしよう」という程度の気持ちだったが、いざ作ってみると予想以上の収穫量だったため、余った分をマルシェで販売するように。これが、新たな生業への入口となった。

「下心はあって、いつか東京や大阪の番組の企画に引っかかるかもしれんと思って、YouTubeで配信していました。生活のためであれ、絶対笑いに変えてやろうと」

半年ほどして、その狙いは見事に当たる。


「『人生が変わる1分間の深イイ話』(日本テレビ)の密着取材が入ったんです。番組の放送を皮切りに、ほかのテレビやラジオ、自治体や地元事業者から自然アクティビティの体験レポート、店の取材、講演会のオファーなども来るようになりました」

その一方、素人の自分が農業をやることについては、後ろめたさも感じていたという。

「移住してきた芸人が片手間で農業をやる。その売値も相場より高いとなれば、これは絶対嫌われてるぞと思っていました。そんな折、農家の方から手紙が届いたんです。『クレームや……』と覚悟して封を開いたら、収穫時期や病気の対策を教える助言がびっしり。『懐デカすぎるやろ』って感動しました」

その後、土地の持ち主が変わったことを機に古民家と農地の賃貸契約は終了。現在では、養蜂にチャレンジしている。

「農家時代にお世話になった料理家のかたが飲食店をやっていて、あるとき訪れたら蜂蜜を売っていた。聞けばビルの屋上で蜂を飼っているとのことで、興味を持ちました。蜂は刺される心配もあるので、テレビ取材には向かないところもある。それでも養蜂家の方にもバックアップしていただき、勉強しながらやっています」

50歳、60歳になっても「住みます」でいいのか

’26年5月には、山形で知り合った女性と結婚した。


「ロケで縁があった企業の従業員のかたです。記念写真を撮ったことをきっかけに野菜を買いに来てくれるようになりました。独り身のときは『芸人なんかいつでも辞めてやる!』と逃げ道を考えていたんですが、結婚してそうもいかなくなりました(笑)」

すっかり山形に根を下ろしたように見えるが、現状の立ち位置に満足はしていない。

「50や60になって、いつまでも『住みます』言うてる場合じゃない。番組に出るときも、ゲストリポーターではなく、MCのようなホスト側にならなければいけないと思っています。県内の食や観光紹介だって、ただ『おいしいです』『きれいな景色です』と正しく伝えるリポートなら、アナウンサーに勝てない。腐ってもお笑い芸人ですから、しっかり笑いを取りに行きたいです」

’24年10月からは山形放送YBCラジオで、単独番組『本坊元児のコンポストラジオ』も始まった。原稿を読むことに緊張し、スムーズに進行できない。それでも、自分の責任で表現する時間は楽しいという。

「進行がうまく行かず、相方のせいにすることが減りました。『自分がどう面白くするか』を考えるほうが協力プレーになりやすく、結果、コンビのラジオもいい感じになっています」

苦境に立っても折れないサバイバル力を支えたのは、東京で肉体労働に従事した8年間だったと話す。

「月収18万円の工事現場で時期によっては毎日、8年間働いた。
そのことがものすごい自信になっていて。明日からシカゴに行けって言われても、なんとかなると思ってます」

40歳で住む場所と人間関係を変え、50代を前に仕事の役割を見直す。将来への不安は、完全になくなったわけではない。それでも本坊さんは置かれた地でできることを増やしながら、お笑いの世界を生き抜いていく。

【松嶋三郎】
浅く広くがモットーのフリーライター。紙・web問わず、ジャンルも問わず、記事のためならインタビュー・潜入・執筆・写真撮影・撮影モデル役など、できることは何でもやるタイプ。X(旧Twitter):@matsushima36
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