◆報知プレミアムボクシング ▷激闘の記憶第1回 具志堅用高vsファン・ホセ・グスマン

 報知プレミアムボクシングの新連載「激闘の記憶」の第1回は元WBA世界ジュニアフライ級(現ライトフライ級)王者・具志堅用高(協栄)の世界初挑戦をピックアップ。1976年10月10日(山梨学院大体育館=観衆7000)にチャンピオンのファン・ホセ・グスマン(ドミニカ共和国)に挑み、不利の予想を覆し7回KO勝ち。

無名だった21歳の青年は一躍時の人となり、新時代がスタートした伝説の一戦です。

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 13連続防衛という日本記録を持つ元WBA世界ジュニアフライ級(現ライトフライ級)チャンピオン・具志堅用高(協栄)が、衝撃的なKO勝利でタイトル奪取に成功。具志堅時代が幕開けする歴史的な一戦である。

 デビューから8戦全勝の具志堅は、その強打から“リトル・フォアマン”の異名を持つグスマンに挑戦。サウスポーの具志堅はスタートから積極的に攻めた。2回、右フックでグスマンの腰を落とし、連打からの左ストレートでダウンを奪う。3回には逆に王者のパンチにピンチを迎えるが、4回には左ストレートでグスマンから2度目のダウン。そして7回、ボディーブローからの右で王者をロープに詰めると、右アッパーから左をフォローして10カウントを聞かせた。当時、ジュニアフライ級(48.9キロ以下)は最軽量級であったが、この試合を報じる本紙記事にはこう表現されている。

 「これがジュニアフラ級のボクシングだろうか。パンチが当たる度に相手がぐらつき、ジュニアフライ級の打撃戦というよりヘビー級の迫力だ」

 業界では期待された存在でも、世間一般では無名の21歳。沖縄県出身初の世界王者となり、試合後「ワンヤ、カンムリワシニナイン(自分はカンムリワシになりたい)」と話したことから「カンムリワシ」のニックネームがついた。

9戦目での世界王座奪取は当時の日本最短記録(現在は田中恒成の5戦目)。前日にはロイヤル小林(国際)がWBC世界ジュニアフェザー級(現スーパーバンタム級)王座を奪取しており、日本ボクシング界は2日続けてのお祭り騒ぎとなった。

 所属先の協栄ジム・金平正紀会長(99年3月死去)は「100年に1人の天才」とその素質にほれ込んだ。沖縄・興南高3年時にインターハイのモスキート級で優勝。推薦で拓大への進学が決定していたため、沖縄から空路上京したが、羽田空港で待っていたのは大学関係者ではなく、協栄ジムのマネジャーだった。そのまま車でジムに行き、半ば強引にプロ入りが決定した経緯もある。

 現役時代は無口でおとなしい青年という印象だが、ひとたびリングに上がるとひょう変する。鋭い目、非情なまでに相手を打ちのめす攻撃スタイルは、まさに狙った獲物は逃さないカンムリワシそのものだった。王座獲得後の活躍はすさまじい。V3戦から6連続KO防衛。79年の1年間でV7からV10まで年間4度の防衛という偉業を達成している。80年6月にはマルチン・バルガス(チリ)をKOして12度目の防衛に成功。

これは当時のジュニアフライ級の連続防衛記録であり「この記録を目標にやってきた。もうやめてもいい」と語ったほど満足感に満ちていた。同時に、精神的にも肉体的にも限界が近づいていた。13度目の防衛戦ではペドロ・フローレス(メキシコ)に何とか判定勝ちするが、危ないシーンも見られた。そして5か月後の再戦は12回KO負け。4年半という長期政権に幕が下ろされた。この一戦を最後に引退。現在はボクシング番組の解説者、タレントとして活躍している。

 ◆具志堅用高(ぐしけん・ようこう)1955年6月26日、沖縄県石垣市生まれ。74年5月にプロデビュー。プロ9戦目でWBA世界ジュニアフライ級(現ライトフライ級)王座を獲得すると、日本記録となる13連続防衛に成功。プロ戦績は23勝(15KO)1敗。

身長162センチの左ファイター。2014年に国際ボクシング名誉の殿堂オールドタイマーに選出されている。

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