◆報知プレミアムボクシング ▷激闘の記憶 第2回 勇利アルバチャコフvsムアンチャイ・キティカセム
報知プレミアムボクシング「激闘の記憶」第2回は元WBC世界フライ級王者・勇利アルバチャコフ(王座奪取時のリングネームはユーリ海老原、協栄)。旧ソ連時代にナショナルチームのエースとして活躍し、「ペレストロイカ軍団」としてオルズベック・ナザロフ(元WBA世界ライト級王者)らと1989年に来日。
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世界挑戦前の勇利の戦績は12戦全勝、11KO。その数字からも分かるように、実力は日本ボクシング界で群を抜いていた。アップライトの構えからジャブを放ち、右ストレートを打ち抜く。難しいことをやっているのではなく、基本を完璧にこなす。恐怖の右はバズーカ砲の破壊力というよりも、日本刀のような切れ味であり、一撃で相手を仕留めた。
「勇利は強い。世界チャンピオンになる時が来た」。ボクシングファンなら誰もがそう思う中、両国国技館のリングにゴングが打ち鳴らされた。2階級制覇のムアンチャイと対峙(たいじ)した世界初挑戦の挑戦者は、臆することなく正確無比なパンチを打ち込んだ。
しかし3回、ムアンチャイの右で人生初のダウンを喫した。ただ、ここからが本領発揮となる。時間を使い回復したことを確認すると、逆にダウンを奪い返した。キャリアに勝る王者も粘りに粘り応戦するが、ここまでだった。8回、勇利の右ストレートに王者はうつぶせでキャンバスに崩れ落ちた。レフェリーがカウントを数えるが、ムアンチャイはピクリとも動かなかった。衝撃的なKOシーンを生み出した「右」。現実の世界とフィクションとでは比較は難しいが、もしウルトラマンに例えるならば、その「右」は、必殺技スペシウム光線に値するのだろう。
来日したばかりの勇利の練習、試合を見て感じたことは異次元の動きだった。
「特別なことはしていないが、ひとつひとつの技術のレベルが高く、穴がないスタイル。(オルズベック・)ナザロフも同じで、ジャブがうまくて足も使える。そしてパンチも強い。その来日メンバーの中でも勇利は群を抜いた存在だった」
一緒に来日した旧ソ連ナショナルチームのコーチ、アレクサンドル・ジミン・トレーナーの存在も大きかった。トレーニングのひとつひとつが科学的根拠に基づくもので無駄がなかった。だからといって根性論がゼロでもない。取材で足を運ぶ度に、新しいものと出会った感覚を今でも覚えている。
衝撃的なKOで世界チャンピオンとなった勇利だが、この試合は残念ながらメインイベントではなかった。当日、両国国技館のリングでメインイベンターを務めたのは米ハリウッドスターのミッキー・ローク。
勇利VSムアンチャイには続編がある。93年3月、2度目の防衛戦は敵地タイのロッブリーでムアンチャイの挑戦を受けた。日が暮れた屋外リングでの試合だったが気温は30度以上。第7ラウンドに勇利がダウンを奪い、その後も攻勢をかける中、突然終了のゴングが鳴った。まだ30秒も時間は残っていたが、ムアンチャイのピンチを救おうと疑惑のゴングが鳴らされた。そんなハプニングにも動じず、勇利は9回TKO勝ちで前王者を返り討ちにした。ムアンチャイとの2試合はともに当該年の年間最高試合に選ばれている。
最強の名を欲しいままにした勇利だったが、97年11月の10度目の防衛戦(暫定王者との統一戦)でチャチャイ・ダッチボーイジム(タイ)に判定負けで王座を失い、この試合を最後に引退。その後、一時は日本でトレーナーをしていたが、程なくしてロシアへ帰国した。勇利の王者時代、鬼塚勝也(元WBA世界スーパーフライ級王者)、オルズベック・ナザロフと協栄ジムには同時に3人の世界王者が在籍していた。
◆勇利アルバチャコフ(本名ユーリ・ヤコブレビィチ・アルバチャコフ)1966年10月22日、ロシア共和国ケメロボ州タシュタゴル出身。