空手家・佐竹雅昭(60)が今年、格闘家人生45年を迎えた。その実力と人気で1990年代に人気が沸騰した立ち技系格闘技イベント「K―1」を生み出したレジェンド。

スポーツ報知は現在の格闘技人気につながる礎を築いた佐竹を取材。空手家人生を代表する「十番勝負」を連載する。八番勝負は「K―1」武蔵戦(後編)。

 99年10月5日、大阪ドーム。「K―1グランプリ」開幕戦で武蔵と対戦した佐竹は、1回に右ストレートでダウンを奪った。しかし、武蔵も2回は左ミドルキックを軸に逆襲に出た。3回からは、タイトな展開でそのまま5回終了のゴングが鳴った。

 試合のジャッジは、1人が外国人レフェリーだったが、残る2人がアーネスト・ホーストらが所属する「ボスジム」会長のヨハン・ボス、マイク・ベルナルドらが所属する「スティーブジム」会長のスティーブ・カラコダが担当する異常な編成。果たして、結果はジャッジ3人がすべて48―46で武蔵を支持した。佐竹が「10点」を取ったのはダウンを奪った1回のみ。2回以降は、すべて武蔵がポイントを取った判定だった。リングで結果がアナウンスされた瞬間、佐竹は決断した。

 「このままK―1をやめよう」

 あれから26年。今、決断の理由を説明した。

 「まず、武蔵の攻撃にまったくダメージはありませんでした。僕を攻め込んでくれたら潔く負けを認めてました。だけど、パッとしない攻めばかりですべてが中途半端だった。もちろん、倒せなかった僕にも責任があります。ただ、それ以上に負けたことを自覚させるダメージはまったくありませんでした」

 そして、続けた。

 「前にも言ったようにこの大会は前からK―1事務局が醸し出す不穏な空気も感じていましたから、判定が出た時にその理由が分かりました。リングの上では、怒りよりも『やっぱり、そうか』って感じでした。いつまでもこんなところにいると僕の人生にとってロクなことはないと思って、一刻も早く去ろうと思ってました」

 荷物をまとめて大阪ドームから去ろうと思った。しかし、控室でセコンドに付いた後輩たちが判定への怒りをあらわにし泣いていた。自分のために涙してくれている姿を見て決断した。

 「後輩の姿を見て、ひとつのけじめをつけるために、石井(和義)館長と話をすることを決めました。館長の部屋へ行って『どういうことですか?』と聞きました。そしたら『佐竹、そんなん、もう、どうでもえぇやん』と返ってきました。その言葉で、やっぱりここは俺がいる場所じゃない、と思ってやめる決意が固まりました」

 11月4日、佐竹は会見を開いて正式にK―1離脱を表明した。思えば、ドン中矢ニールセンから始まり、ウイリー・ウイリアムス戦、前田日明が主宰する「リングス」参戦…など佐竹の闘いが「K―1」の扉を開いた。絶大な功績を残して、そのリングを去った。しかし、闘いは終わらなかった。

 (続く。敬称略。取材・書き手 福留 崇広)

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