第102回箱根駅伝の予選会は18日、東京・立川市などで行われる。42校の選手がハーフマラソンを一斉スタートし、10人の合計タイムの上位10校が本戦(来年1月2、3日)の出場権を獲得する。
紫紺にMの文字。明大関係者によると、「現存するものとしては最古」とされる伝統のユニホームを見つめながら、小谷野さんは柔和な笑顔で箱根路の思い出を語った。
「このユニホームで走りました。Mの形は昔も今も同じです」
1951年大会。1年生ながら10区を任され、2位でタスキを受けた。
「バイクのサイドカーに乗った常藤俊雄監督がすぐ近くでゲキを飛ばし続けてくれた。当時のゴール地点は有楽町。2位を守ってゴールできた時はホッとした。箱根はニュース映画で報道されていて、私がゴールする姿も映りました」
翌年大会も10区を走ったが、箱根路を駆けたのは、これが最後になった。
「3年生になってマージャンを覚えてしまい、神田のジャン荘でマージャンばかりしていました。
54年に卒業後、安田生命(現・明治安田生命)に入社。ビジネスマンとして活躍し、全国各地で勤務。定年退職後、再び走ることに全力を注ぎ、マスターズ陸上で活躍した。400メートル1分11秒47、800メートル2分43秒91、1500メートル5分30秒34で走り、3種目で70歳クラスの埼玉県記録をマーク。75歳クラスでは全日本マスターズで800メートルと1500メートルの2冠に輝いた。
「やっぱり走ることは楽しいですよ」
昨年10月、当時、94歳だった小谷野さんは心不全と腎不全のため体調を崩し、入院した。ちょうど、明大が箱根予選会で敗退した頃だった。家族は主治医から「正月は迎えられないかもしれません」と告げられたという。しかし、その後、主治医が驚くほど体調は回復。ランニングで鍛えられた体力で生命の危機から脱した。明大がリベンジを期す箱根予選会が近づき、約70歳年下の後輩たちに“復活”を期待する。
明大は箱根で歴代8位の7度の優勝を誇るが、最後の栄冠は49年の第25回大会までさかのぼる。
「私も学生時代に優勝できなかった。明大の優勝をぜひ見てみたい。それまで死ねません」
学生時代、箱根駅伝で好走の成功も、マージャンにおぼれるという失敗も経験した小谷野さんは優しく、穏やかな表情で、懸命に走る後輩にエールを送る。
「どんな時でも私は明大を応援しています」
〇…大勝負が迫り、明大チームは臨戦態勢にある。「体調不良の選手はいません。順調にきています」と大志田監督は冷静にコメント。夏苅さん、小谷野さんら大先輩の激励には感謝している。大志田監督は「皆さまの期待に応えられるように頑張ります。大学、OBの皆さんが取り組んでいる『Mの輝きを再び』という言葉の意味を選手は理解しています」と言葉に力を込めて話した。
〇…明大最後の優勝メンバーの夏苅(旧姓・久保)晴良さんも後輩たちの活躍を心から祈っている。49年大会で4区を走り、優勝に貢献した96歳は「予選会に臨む大学は全て必死に練習していると思います。
〇…明大は15日、洋菓子大手の「不二家」とのスポンサー契約を発表した。18日の箱根予選会から、右胸に同社のマスコットキャラクターの「ペコちゃん」入りのユニホームを着用する。室田安寿駅伝主将(4年)は「ペコちゃんを胸に走れることはこの上ない喜びであり、大きな力となります」とコメントした。
◆小谷野 重雄(こやの・しげお)1930年8月3日、埼玉・鴻巣町(現・鴻巣市)生まれ。95歳。50年に熊谷高から明大政経学部に入学。54年に卒業し、安田生命(現・明治安田生命)に入社。全国各地に勤務して活躍した。定年退職後、マスターズ陸上で多数の優勝を飾り、名をはせた。
◆明大競走部 1907年創部。正式名称は「陸上競技部」ではなく「競走部」。1920年の第1回箱根駅伝に出場した4校のうちの1校で東京高等師範学校(現・筑波大)、早大、慶大とともに「箱根オリジナル4」と呼ばれる。56年は部員が足りずラグビー部員が6人出場。当時の公式プログラムには実質的な監督としてラグビー部の北島忠治監督の名が記された。出雲駅伝は最高7位(2011、13年)。全日本大学駅伝は最高2位(14年)。タスキの色は紫紺。練習拠点は東京・世田谷区八幡山。