巨人に立ちはだかった名選手の連続インタビュー「巨人が恐れた男たち」。第11回は元西武の石毛宏典さん(69)だ。

走攻守、さらに天性のリーダーシップを兼ね備えた名手は、1980~90年代に黄金期にあった西武をけん引。日本シリーズでも巨人と4度の激闘を繰り広げた。巨人に対し4連勝と圧倒して球界に衝撃を与えた90年のシリーズから、師匠と慕う広岡達朗元監督との出会いまで、「喜怒哀楽」の記憶をたどった。(取材・構成=太田 倫)

 プロ野球選手になりたいと思ったことはなかった。甲子園に行きたい高校生でもなかった。実家が農家で、家に帰りたくない、野良仕事はやりたくない、そんな思いで野球部に入っていたようなものだ。

 駒大に入ったばかりのときは、教職を取って母校の監督でもやろうかなと思っていた。寮から学ランを着て授業に行こうとしたら、呼び止められた。部屋長は4年生の中畑清さんだ。

 「何考えてんだ、おめえは? 授業なんかいらねえ、ジャージーに着替えて、走って、バット振っとけ!」

 そのおかげで、大学時代から日本代表に選ばれるようにもなった(笑)。

 西武では「チームリーダー」と呼ばれてきた。広岡さんが監督のときには試合前に必ずオレが1分間スピーチをやった。

テレビや映画を見て、本や新聞を読んでネタ集めをした。自分に語りかけるように話すと、みんな耳を傾けてくれる。130試合は大変だったけど、自分を耕すいい時間をもらった。とはいえ、プロの世界はそれぞれが個人事業主。リーダーなんて称号は、過大評価に感じられて居心地が悪かったものだ。86年に森監督に代わってからは、主将に任命されて、監督、コーチのミーティングにも参加して、中間管理職みたいな仕事もした。

 ある遠征先でのこと。負けた試合の帰りのバスで、清原和博と大久保博元がおしゃべりしていた。「てめえら、ふざけんな」ときつくしかった。当時の若手は新人類なんて言われていたけど、厳しいことを言っても素直に聞く耳は持っていた。あとで大久保は「石毛さんに言われたらしかたないです」と言っていたけど、それくらいのものは示してこられたんじゃないかな。

 野球という仕事を通じて楽しさを感じることって、実はそうそうないと思っている。

一過性の喜びはあっても、喜怒哀楽を感じてる余裕なんてないんじゃないか。ライバルと思っていた選手はいない。ただただ、やるからにはうまくなりたいと思っていた。向上心が自分を駆り立てて、そこには「不安」という2文字が絶えず付きまとう。その2文字を消すためには練習しかない。プロ野球の選手って、そんなもんじゃないかなと思うんだ。

 ◆石毛 宏典(いしげ・ひろみち)1956年9月22日、千葉県生まれ。69歳。市銚子―駒大―プリンスホテルを経て80年ドラフト1位で西武に入団。1年目から遊撃手の定位置を獲得して新人王を受賞。86年には3割2分9厘、27本塁打でMVPを受賞した。ベストナイン8回。

94年にFA権を行使してダイエーに移籍した。96年に引退後は、ダイエーの2軍監督、オリックスの監督を務めた。独立リーグ・四国ILなどの創設にも尽力。現役時は180センチ、75キロ。右投右打。

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