巨人のライバルだった名選手の記憶を掘り起こしてきた「巨人が恐れた男たち」。最終回は星野仙一さんの足跡をたどる。

打倒・巨人に全てをかけてきた「闘将」。2005年、その宿敵からまさかの監督要請を受け、胸中は揺れ動く…。激情の中日時代を振り返る「最大の敵編」、20年前の夏を初めて巨人の元オーナー・滝鼻卓雄氏(86)らが語った「幻の監督編」。関係者の証言で「星野仙一と巨人」に迫る。(取材・構成=太田 倫)

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 【幻の監督編〈1〉】 星野仙一が泣くのは珍しいことではない。しかしその涙は、ほかとまったく別の哀切さを帯びていた。

 星野は泣いた。ソファから崩れ落ち、床に手を突き、体をくの字に折り曲げるようにして泣いた。2005年9月1日、都内のホテルの一室だった。

 「何回も来ていただいたのに、明確な回答ができなかった。光栄に思っている。ありがたく思っている。

しかし、阪神を捨てることはできない。私の心を分かってほしい」

 巨人軍オーナー・滝鼻卓雄は、かけるべき言葉を探した。だが、見つからなかった。内面をむき出しにするようにむせび泣く星野の背中を見ながら「慟哭(どうこく)とはこういうことなのか」と考えていた。残暑の厳しかったこの日、「巨人・星野監督」誕生の可能性が事実上、消えた。

 星野は真夏に燃え出したストーブリーグの主役となっていた。8月11日、一部メディアが「星野氏巨人監督最有力」と報じたのを発端に、巨人が、不倶戴天(ふぐたいてん)の敵とも言える男を新たな指揮官として招へいしようとする動きが、明るみに出た。

 巨人はどん底にあった。04年はリーグ3位で面目は保ったものの、テレビ中継の平均視聴率12・2%(ビデオリサーチ調べ、関東地区)は歴代ワースト。05年も開幕4連敗でスタートし、4月下旬には最下位に転落する厳しい戦いを強いられた。視聴率も下落する一方だった。「ひとつにはチームの不振があり、もうひとつには視聴率の低迷があった。

この状況を打破しなくてはいけない。次期監督には、それだけのエネルギーの持ち主が必要だった」と滝鼻は述懐する。

 守護神と頼んだダン・ミセリは背信投球の連続で早々に退団し、主砲のタフィ・ローズがコーチともめた。復活を期した清原和博も不振に沈んでいた。3年契約の2年目に並々ならぬ決意で臨んでいた堀内恒夫監督だったが、もはや一個人の采配で事態が好転するレベルではなかった。常勝球団の宿命として、新監督人事が取りざたされた。

 外国人監督まで検討された中、「星野」の名前が具体性を帯びたのは、7月の中旬である。渡辺恒雄球団会長と、渡辺の盟友で球団の相談役を務める日本テレビの氏家斉一郎取締役会議長の会食の席だった。「星野はどうだろうか」。03年限りで阪神の監督を退任し、オーナー付シニアディレクター(SD)として球団にとどまっていた星野が、ジョーカーとして浮上したのだ。

 巨人で「外様」が指揮を執ったことはない。「渡辺さんや氏家さんの発想は、チームが優勝すること、視聴率、集客率を上げることだった。

巨人の純血主義については、2人も僕も考えていなかった」と滝鼻は語る。球界の盟主のプライドを取り戻すためには、伝統も慣例もかなぐり捨てる覚悟と、「巨人は変わろうとしている」という強いメッセージが必要だった。外部に人材を求めるならば、改革を託せるのは確かに星野しかいなかった。

 ◆星野 仙一(ほしの・せんいち)1947年1月22日、岡山県生まれ。倉敷商から明大に進み、68年のドラフト1位で中日入り。6年目の74年に先発、リリーフ兼任で15勝9敗10セーブで巨人の10連覇を阻み、沢村賞受賞。82年に現役引退し、86年オフに中日の監督就任。その後、阪神、楽天で監督を務め、史上3人目の3チームでリーグ優勝。正力松太郎賞受賞2度。17年1月にはエキスパート部門で野球殿堂入り。楽天の球団副会長だった18年1月4日、膵臓(すいぞう)がんのため死去。享年70。

現役時代は右投右打。

 ※文中敬称略、肩書は当時のもの

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