浜松市出身で、1965年の第1回プロ野球ドラフトで広島から1位指名を受けた佐野真樹夫さん(82)が、このほどしずおか報知のインタビューに応じた。“初代ドラフト1位”という歴史的な肩書を持つ元プロ野球選手は、引退後、地元で40年以上にわたりアマチュア野球の育成に力を注いできた。

「浜松から一流のプロ野球選手を輩出したい」。その思いを持ち続けるレジェンドに迫る。(取材・構成=伊藤 明日香)

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 佐野さんは昨年10月から浜松南リトルシニアの顧問として戻ってきた。浜松開誠館高監督の長男・心(58)の下でコーチを務めていたが、23年度限りで退任。「チームからの強い要請があった」ため、小中学生指導への復帰を決めた。多くの球児を育て、「今でも街中を歩くと、教え子やその家族から、浜松南リトルシニア時代の『総監督』と呼ばれるよ」。浜松球界のまさにレジェンドだ。

 浜松南リトルシニアは、一昨年夏に甲子園に出場した掛川西の山下陸人遊撃手(駿河台大1年)、昨年のセンバツに出場した常葉大菊川の佐藤大介投手(2年)など、前身を含めると約2000人もの選手を輩出。1991年に中日から6位指名を受けた心もOBだ。史上初の親子でのドラフト指名選手として話題になった。現役では、ヤクルトの鈴木叶捕手(19)、西武の佐藤太陽内野手(23)がいる。

 自身は広島の初代ドラフト1位も、プレーしたのは4年間。

酒店を営んでいた父が脳出血で倒れたことに加え、自身も肩の腱(けん)を断裂した。当時は十分な治療法もなく、痛みを抱えながらのプレーが続いていた。球団から慰留を受けたが、ユニホームを脱ぎ、家業を継ぐ道を選んだ。

 「引退後は野球から離れるつもりだった」。その思いを変えたのが、長男の存在だった。幼少期からキャッチボールを重ね、小学4年生になった際、将来の夢を決めさせたところ、「プロ野球選手」と即答。その言葉は今も忘れられないという。「誘導した部分はある(笑)。でも最後は自分で決めることが大事」と笑った。

 小学5年生になった心が元近鉄の佐野勝稔(かつとし)さん(享年79)が行っていた、7、8人を相手にする野球教室に関心を示した。そのため、指導に加わるようになった。その後、勝稔さんが77年に浜松リトルを創設。

翌年には卒業生の受け皿として浜松シニアを設立、真樹夫さんが初代監督に就任した。チームの人数が120人に達し、84年に2つに分かれた際、浜松南の監督を務めることになり、気づけば監督や総監督として30年以上携わることになった。

 息子への指導は当初、万能型を目指したが、パワー系ではなかったため、持ち味を生かすべく、1、2番を打つリードオフマンを務められる俊足選手として育成。選手一人ひとりの特性を重視する形へと変化していった。「息子の成長を通して、個に応じた指導の大切さを学んだ」と話す。心は父と同じ専大へ進学し、プロ野球選手となった。「自分の指導が正しかったことを、心が証明してくれた」と、うれしそうに語る。

 今後は顧問として、グラウンドに時折顔を出し、個人的に指導を行ったり、リーグ運営に意見を述べたりと、「浜松南リトルシニアにもっともっと貢献していきたい」と意気込む。チーム発足の思いは「浜松市の野球を強くさせること」。「浜松から一流の選手」を育てるため、これからも尽力していく。

  ◆佐野 真樹夫(さの・まきお)1943年12月20日、浜松市生まれ。82歳。

高砂小―南部中。浜松商では主将、三塁手として活躍し、61年夏の甲子園に出場した。専大を経て、65年ドラフト1位で広島入り。69年に引退。NPB通算成績は162試合で打率1割9分3厘、3本塁打、17打点。家族は妻と2男。姉は女優の高山真樹さん(享年85)。

 【編集後記】取材中、第1回ドラフト当時の話になった。1965年、自由獲得方式からドラフト制度へ移行した歴史的な年だ。専大4年だった佐野さんは主将として春秋リーグ連覇、全日本選手権優勝の三冠を達成した。しかし、指名予想の報道はなく、プロ入りの確証はなかった。運命の日、広島は電電九州の田端謙二郎を指名し競合。

抽選で近鉄が交渉権を獲得した結果、佐野さんが1位指名された。本人はそのことを知らずに合宿所を出て、数十人の記者に囲まれ、初めて指名を知ったと懐かしむ。

 また、初の親子ドラフト指名が実現した91年も裏話がある。中日はいすゞ自動車の佐野心をリストアップしていたが、愛工大名電高の鈴木一朗も候補だったという。関係者から「似たタイプの選手が既に指名されている場合は選ばれないかもしれない」と言われていた。しかし、イチロー氏はオリックスに4位指名され、心は無事中日から6位で指名。数多くの貴重な話を伺う機会になった。

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