春のセンバツ高校野球が盛り上がりを見せる中、大学駅伝界にもかつて甲子園を目指したランナーたちがいた。駒大OBの鈴木俊通さん(71)は、夢だった箱根駅伝出走を4年時にかなえ、現在はOB会の一員として母校を熱く応援している。

千葉・成東高時代は、元中日投手の鈴木孝政さん(71)らとともに甲子園を目指したが、聖地には届かず。目標を箱根路へと切り替え、駒大に一般入学からはい上がった。夢への道のりや箱根駅伝の魅力について語った。(取材・構成=手島 莉子)

 夢をかなえるための決意は人一倍、強かった。鈴木さんは中学時代から野球部に所属し、投手として活躍。地元の強豪・成東高で甲子園を目指した。同期には中日で124勝&96セーブと大活躍したエース・鈴木孝政さんもおり「チームは本当に強かった。本当に甲子園に届きそうだった」。1年時の1970年夏、東関東大会決勝で銚子商に1―2で惜敗するなど聖地には迫ったが、あと一歩届かなかった。

 目標を失っていた高3の10月、転機が訪れた。昔から新聞でよく見かけた正月の風物詩が脳裏に浮かんだ。小中高と校内マラソンは全て1位。

長距離走には自信もあった。「高校時代のふがいなさもありました。もっとやれたはず」。目標を箱根路に切り変え、駒大に進学した。

 当時、新入部員は鈴木さん以外全員がスポーツ推薦。全国の陸上部から集まった精鋭たちと一緒に走った。「(初日の練習で)なめられてはいけない、と思ってトップグループで一生懸命走りました。でも後で聞いたら、皆は疲れを取るジョギングをしていただけ…」とレベルの差を痛感。一般入学のため、1年の8月までは寮にも入れず。千葉市内にあった姉の家から片道約2時間かけて都内まで通学した。

 ハードな毎日でも、心は折れなかった。「『鈴木俊通』という人間を認めてほしい。

箱根を走るしかない」。中日にドラフト1位指名されてプロ入りした孝政さんから、高校卒業後に掛けられた言葉を思い出した。「今、楽しているやつはダメだ。今年1年は汗を流して頑張らないとダメだ」。甲子園に届かなかった悔しさが、ここにきて大きな原動力となった。

 地道な努力は結果となって表れた。5000メートルの自己記録は1年時の17分33秒から、2年秋には15分20秒と急成長した。3年時には3区で箱根駅伝メンバー入り。ただ、登録発表の12月初旬、うれしさのあまり寮を出た時に足をくじき、出場が困難に。それでも「最後(4年生で)絶対に走る」ともう一度、自身を奮い立たせた。

 その箱根後、大半の選手が帰省する中、鈴木さんは「一人合宿」と称して大学に居残って走り込んだ。400メートルトラックをぐるぐると回り、42・195キロを走破した日もあった。

4年春には、5000メートルの記録を14分57秒まで伸ばした。

 そして最終学年の1977年大会、7区でついに箱根路初出走を果たした。夢舞台で藤色のタスキをつなぎ「大観衆の声援を今でもすごく覚えています。やってきて良かったって思いました」と全力疾走。区間12位も「自分の中で心の支えの一つになっています」と初めて味わった達成感の記憶は鮮明だ。

 卒業後は地元に戻り、千葉・東金市役所に勤務した。勤務先でもすぐに名前を覚えてもらえ「箱根駅伝の効果は絶大だった」という。箱根路でかなえた夢への過程は大切な宝物。「駒大で良かった」と今は常勝軍団となった後輩たちを、優しいまなざしで見守っている。

 ◆鈴木 俊通(すずき・としみち)1954年12月25日、千葉・東金市生まれ。71歳。東金市立第一中では投手兼外野手、成東高では投手陣の一角を担う。

駒大経済学部に進み、4年時の箱根駅伝7区12位。卒業後は東金市役所に勤めながら、市民ランナーとして大会にも出場。2014年に定年退職した。

 ◆甲子園に出場した箱根駅伝ランナー 富山・高岡商の正捕手として、1962年夏の甲子園でプレーした熊本武明さんは青学大で箱根駅伝にも出場。甲子園では山梨・甲府工との1回戦で0―2の8回に9番打者で逆転3ランを放ち、5―2の勝利の立役者となった。箱根駅伝は65年大会で1年生ながら山上りの5区を担い、区間14位。チームも14位。翌66年大会は山下りの6区を任され、区間14位。チームは13位だった。

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