東京六大学リーグ・早大の監督として、和田毅(元ソフトバンク)、青木宣親(元ヤクルト)、鳥谷敬(元阪神)らを育てた野村徹さんが亡くなった。89歳だった。

早大野球部時代に指導を受けた片岡泰彦記者が、当時の知られざる素顔を明かすとともに、恩師を悼んだ。

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 野村監督が就任したのは、私が1年生だった1999年の1月だった。そこから引退するまでの3年間、指導を受けた。情熱的で愛情あふれる人だった。思い出はいろいろとある。ありすぎて、なかなか書ききれない。

 就任当時、62歳。正直に言うと、よぼよぼのおじいちゃんに見えた。だが、まなざしは異様に鋭く、全身から殺気のようなものを放っていた。当時のワセダは低迷期。母校を再建すべく、気迫をみなぎらせていた。後に聞いたら「最初になめられたらあかんと思っていた」と言っていた。

グラウンドにはユニホーム姿で朝から晩まで立ち続け、就任当初の1~2か月はキャッチボールとボール回し、基本的な守備練習をやっていた記憶しかない。

 基本に忠実であることを徹底的に求められた。しっかりとボールの正面まで足を運んで捕り、しっかりとステップして送球する。逆シングルキャッチもジャンピングスローも禁止。グラブをはめる際には、守備用手袋を装着することも人差し指を出すことも禁止され、しっかりとグラブの芯で、音を立てて捕ることを求められた。ボール回しだけで半日が終わってしまったこともある。その結果、グラブをはめる左手の人差し指を疲労骨折したり、血行障害となって爪が壊死してはがれたり割れたりする選手が続出。左利きの私も右手の人差し指は血行障害となり、冬場は指先が白く、冷たいままだ。だが、就任直後の99年春、チームは無失策のまま開幕8連勝。無傷で93年秋以来のリーグ優勝を果たし、その指導が正しかったことをさっそく証明したことには驚いた。

 時にはミットを手にブルペンに入り、藤井秀悟(元ヤクルト)ら後にプロでも活躍する投手のボールも平気で受けた(後年、「和田のボールだけは怖くて、よう受けんかった」と言っていたが)。ノックで少しでも気を抜いたプレーや雑なプレーを見せたら逆鱗に触れた。

「どけ! 外れろ!」と怒声が飛び、その選手のグラブを奪い取り、代わりにノックを受けて見せることもあった。もちろん、機敏な動きができるはずもなく、打球に追いつけない。それでもボールに飛び込んでいく。すぐさま立ち上がり「もう一丁!」とボールを呼ぶ。「オレは体は動かないけど、気持ちだったらお前らなんかに負けんぞ」。泥だらけのユニホームで、涙を流しながら叫んでいた姿が忘れられない。

 教え魔でもあった。あれは古希のお祝いだっただろうか。都内で当時の教え子が集まって野村監督を囲む会を開いたことがあった。その会もお開きになろうかというタイミングで、デーゲームを終えた田中浩康(当時ヤクルト)が駆け付けてきた。田中の顔を見るやいなや「お前に教えたいことがあるんや」と、バットを片手にプロ野球選手を相手にバッティング指導がスタート。それがなかなか終わらない。

周囲が「監督、そろそろ…」と切り上げようとするも「なんや? もう終わりか? プロはアマを教えちゃいけないけど、アマがプロを教えちゃいけないなんてルールはないんやで」といたずらっぽく笑っていた。

 今も変わらないが、早大にスポーツ推薦で入学してくるのは毎年数人だけ。私の代は2人しかいなかった。大半は私のような浪人経験者を含む一般入学組で、推薦組が多数入学してくる法大や明大と比べると、選手層が圧倒的に薄く、選手個々の力量も大きく劣っていた。それでも、野村監督は根気強く、熱心に指導してくれた。ありがたかったけど、申し訳なくもあった。卒業してしばらくたった後、ずっと聞きたかったことを聞いてみたことがある。「僕たちのような選手がいるチームを教えるのと、うまい選手がそろったチームを教えるのと、どっちがよかったですか」と。

 「そりゃ、お前らへたくそに教える方がいいに決まっとるやんか。うまいやつに教えることなんてなんもない。それで勝ったって面白くないやろ。お前らみたいなんを鍛えて強くするから面白いんや」

 即答だった。

そう言ってくれるだろうと期待はしていた。野村監督がウソなんてつかないことも、おべっかを使わない人であることも知っていた。それでも、その表情はあまりにも晴れやかだった。本心だと確信した。にじんでくる感涙を必死にこらえたことを昨日のことのように覚えている。

 昨年5月末、1学年下の和田毅(元ソフトバンク)が早慶戦でレジェンド始球式を務めることになり、野村監督も大阪から来てくれた。その際にも、神宮球場近くのホテルで教え子が集まり、野村監督を囲んだ。私も野球をやっている小学生の息子2人を連れてあいさつにうかがった。息子たちが野球をやっていることを伝えると「ちょっとここで振ってみい」と、ビニール傘をバットに見立てて即席のバッティング指導が始まった。昔から何も変わってない。やっぱり教え魔だった。

 野村監督が我々の学生時代に、何度も言っていた言葉がある。

「闘う男になれ」「闘える男になれ」と。私も「お前はいいやつや。気持ちのいい男や。でも、グラウンドではそれじゃダメなんや。闘える男になれ」と言われていた。野村監督は危篤状態に陥ってからも数日、驚異的な精神力で踏ん張り続けた。ゼロになった心拍数が、周囲の呼びかけに応じて2度、3度と戻ったとも聞いた。ご家族が、病室に飾っていた教え子の写真を胸に抱えさせたところ、最期の瞬間を迎えたという。最後の最後まで「闘う男」であり、「監督」であった。有言実行。こんな師がいるだろうか。今はただ、「お疲れさまでした。
そして、ありがとうございました」と声をかけることしかできない。(早大野球部OB、元アマ野球担当・片岡泰彦)

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