東京六大学リーグ・早大の元監督、野村徹さんが8日に亡くなった。89歳だった。

野村さんの監督ラストシーズンとなった04年、早大野球部1年生で指導を受けた巨人担当の片岡優帆記者が恩師を悼んだ。

 野村徹さんは私が大学1年生の04年が監督最終年だった。指導を受けたのは1年間だったが、小学校から大学までの野球人生の中でも特に濃い時間だった。

 早大野球部の伝統「一球入魂」をミーティングでたたき込まれ、キャッチボール、ノックでは「一を大事に」と言われ、1球目の入りのプレーには特に厳しかった。試合ではその一球しかない。だから目の前の一球に全集中しなければいけない。そのためには準備が大切ということも教えられた。ミスをすれば「そんなじゃ神宮でいいプレーはできないぞ」と指摘された。

 平日はリーグ戦期間以外は全体練習はなく、その日の大学の授業の時間によって午前、午後、夕方と数時間ずつ複数のグループに分かれて行う「時間別練習」だった。どの時間帯の練習に参加しても一日中、元気な野村監督がグラウンドにいる。毎日、朝から夜まで熱血指導だった。

 普段は徹底的に基礎練習の繰り返し。

特に大事にしていたのが「守備の基本」というボール回しだった。内野手も外野手も全員が各塁について時計回り、反時計回りで何周も送球をつなぐ。足の運び方や少しでも素早く送球するための捕球体勢など細かい部分まで追究し、ミスが出れば途中で練習を止めて指導が入る。高い正確性を求めて数時間、ボール回しだけで練習が終わる日もあった。

 ネットスローも同じくらい大切にしていた。ひたすら目の前のネットに投げ続ける地道な泥臭い練習。その年のドラフトでヤクルトに入団した4年生で主将の田中浩康選手(現DeNAコーチ)のような主力レギュラー選手からベンチ外の選手まで関係なく課した。学生に寄り添い、より送球の精度を高める方法はないか身ぶり手ぶり一緒に考える。野球の研究者のようでもあった。少しでも光が見えると「良くなったなあ」と柔和な表情で喜んだ。

 ある日の実戦形式の練習では捕手に覇気がないと激怒した。手本を見せると自らマスクをかぶり、レガース、プロテクターまで防具フル装備で捕手の守備についた。

「さあ来い!」。当時67歳。マウンドの投手は投球練習で手加減して投げたが「ピュッと投げてこい!」と全力投球を要求した。

 150キロ近い速球を「バシーン」と音を立ててミットの芯で捕球し「ナイスボール!」。野手には大声で指示を出した。早大の選手時代は伝説の「早慶6連戦」に捕手として出場した野村監督。とにかく元気で、鬼気迫る捕手実演に圧倒された。その場の空気はピリッと引き締まった。

 座学では「戦争と早大野球部」についてや、野球部の大先輩の話など、部の歴史と伝統について聞いて勉強する機会も多かった。そのたびに、野球ができているのは当たり前ではないと考えさせられた。

 早稲田を愛し、野球を愛した野村監督。熱い指導には感謝しかない。

(巨人担当・片岡優帆)

 ◆野村徹(のむら・とおる)1937年1月1日、大阪府生まれ。北野高から早大を経て大昭和製紙へ。大昭和製紙では監督として都市対抗出場。その後、近大付高で監督を務めて88年春夏甲子園連続出場。99年から早大監督。03年秋までリーグ戦4連覇。藤井秀悟、和田毅、鳥谷敬青木宣親、田中浩康ら多くのプロ野球選手を育てる。04年秋限りで退任して応武篤良監督にバトンを託す。

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