「ヒデ、ラーメン食いたくねえ?」「行くか、ゾノ!」
1996年、アトランタ・オリンピック出場を控えた前園真聖(当時22歳。当時横浜フリューゲルス)と中田英寿(当時19歳、ベルマーレ平塚)は「日清ラ王」(日清食品)のCMに出演した。
カップ入り生タイプめんはうどんから始まった。1977年8月には寿がきやが「生タイプ天ぷらカップうどん」を発売しているが、全国的には1989年11月に発売された島田屋本店(現・シマダヤ)の「真打ちうどん」が端緒と言われる。1990年9月には明星食品が「明星 夜食亭生タイプきつねうどん」「同・天ぷらうどん」を発売している。
なぜ、うどんだったのか。生タイプめんの特徴は何といっても麺のみずみずしさとコシだ。水分を多く含んだ麺を常温で保存するためには酸を使って滅菌する必要があるが、中華麺に欠かせないかんすいはアルカリ性で、酸性化処理を施すと麺のコシやねばりが失われてしまう。このため各社は生タイプめんのラーメンの商品化に苦戦していた。
この課題を解決するため、日清食品は原材料粉の配合を見直すとともに、独自の製麺機を用いた「スーパーネットワーク製法」を開発。
1992年9月21日、「日清ラ王」はまず関東甲信越地区で発売。10月12日からは北海道、静岡でも販売が開始された。当初のCMに起用されたのは“浪速のロッキー”こと俳優の赤井英和(当時33歳)と金山一彦(当時25歳)だった。初年度の年間売上計画は150億円とされたが、1993年2月にはその目標を前倒しで達成。同年には「シーフード」「とんこつ」が加わり、販路も全国へと広がった。ピーク時の1993年度には1億5360万個を販売(asahi.com 2010年8月16日付記事より)、同じ技術を活用したうどん「日清のごんぶと」(1993年)、スパゲッティ「日清Spa王」(1995年)も登場した。
この結果カップ入り生タイプめんの市場は急伸し、1995年にはインスタント麺の総生産量(51億9000万食。一般社団法人 日本即席食品工業協会)の1割近い4億8400万食(同)を占めるまでにまで成長していた。こうした流れを受けて企画されたのが、冒頭で紹介した前園と中田のCMだった。日清食品はアトランタ・オリンピックの開催される夏に合わせ、二人の写真をあしらったTシャツが当たる「ラ王へ行こう」キャンペーンを展開。
実はこの前園のCM起用が、サッカー日本代表を“救った”ことがある。“マイアミの奇跡”後の同年12月にUAEで開催されたAFCアジアカップ1996での出来事だ。当時の代表チームはまだワールドカップ出場経験もなく、海外遠征時のサポート体制も不十分だった。「サッカーニッポン代表のすべらない話」(夏海樹良、ベースボール・マガジン社)によれば、このUAE遠征に際して日清食品は前園に大量の「日清ラ王」を提供。
アウェーの地の慣れない食事に閉口していた選手たちは夕食後、前園の部屋に直行し「日清ラ王」を奪い合うように食したという。遠征に参加した名波浩(当時ジュビロ磐田)も後年、「食事はつらかった。ゾノ(前園)に送られてきた『ラ王』でなんとかしのげた。本当にそのくらいつらかった」と振り返っている。この反省が活かされ、日本が初出場した1998年のワールドカップ・フランス大会からはアウェーの試合すべてに日本人シェフが帯同するようになった。
2000年代に入るとノンフライ麺の品質が向上し、生タイプめんの優位性は次第に薄れてゆく。日清食品の技術が高すぎたため他社が追随できず、「日清ラ王」に迫る他社製品が生まれなかったとの評もある。
【岸田林(きしだ・りん)】









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