8月14日は、東急電鉄の創始者である五島慶太氏の命日。類まれな手腕で巨大コンツェルンを築き上げ、“鉄道王”の異名を持った氏の伝説は現在も語り継がれている。

今回は、そんな氏の人物像や功績、まちづくりの哲学について紹介したい。

【五島慶太氏の人物像】
五島慶太氏は一体どのような人物だったのだろうか? 中小企業ビジネス支援サイト「J-Net21」では、氏の人物像について次のように書いている。

「五島慶太は信州上田在郷の人である。激しい気性と乱暴な商売ぶりから、経済人の仲間内から『強盗慶太』と恐れられた。強盗とは『五島』との語呂合わせだが、五島と商売でつき合うと、丸裸にされると恐れられた。五島に関しては多くの評伝があり、小説にも書かれている。いずれも、あまりよくは書かれていない。まあ、『強盗』などと呼ばれたのだから、それも当然であろう。ともかく商売上での五島慶太は、そりゃあ、凄まじい人物だった。しかし、すべてえげつない商売をしていたかというとそうではない。陽性で、先見性もあった。鉄道事業にかけては『西の小林一三、東の五島慶太』と並び称されて、近代日本資本主義が形成される過程を、大急ぎで駆け抜けた人物だ」

偉人を解説する文章としては、少々辛口ではないか。

しかし、氏のエネルギッシュな様は十分に伝わってくる。これほどの強引さを持っていたのは、氏が先を見通す力をもっていたからだと推測される。

【鉄道王としてのキャリア】
氏の鉄道王としてのスタートは、1920年までさかのぼる。鉄道院(戦前の日本で鉄道や運輸行政などを管轄した国家行政機関)を退官した氏は、武蔵電鉄(後に東京横浜電鉄へ改名)と茂原電鉄(後に目黒蒲田電鉄へ改名)の建設に従事。1936年に両電鉄の社長に就任すると、以後は玉川電鉄をはじめとする電鉄会社やバス会社の買収合併を繰り返し、巨大な東急コンツェルンを築き上げていった。その中には、現在の小田急や京王電鉄なども含まれているからその巨大さが実感できるだろう。

【予算即決算主義の採用】
五島慶太の功績のひとつとしてあげられるのが「予算即決算主義」の採用である。年度始めに各部課に収支の見通しを提出させ、これを役員会で査定。それをもとに予算案を編成したのだ。現在では多くの企業で行われている経営手法であるが、当時はまったく新しい取り組みだった。

【教育事業の推進】
強引な買収合併を繰り返すことから「強盗慶太」などの悪名を付けられることもあった氏だが、そういったイメージとは裏腹に教育事業の推進に力を注いだことでも知られている。慶應義塾大学や武蔵工業大学(現・東京都市大学)など多くの学校に土地を無償で提供したほか、学校法人五島育英会を設立して初代理事長に就任するなど、情熱を注いだ。

その裏には“文化事業が興れば人が動く”という彼の哲学も起因しているという。

悪名で呼ばれながらも自分の信念を曲げずに活動した五島慶太氏。彼の活動がなければ、現在の日本は少し違うものになっていただろう。8月14日は、そんなことを考えながら、東京の私鉄に揺られるのも感慨深いかも。

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