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9月15日(金)放送後記

TBSラジオ『アフター6ジャンクション』のコーナー「週刊映画時評ムービーウォッチメン」。宇多丸が毎週ランダムに決まった映画を自腹で鑑賞して生放送で評論します。

今週評論した映画は、『福田村事件』(9月1日より劇場公開)です。

宇多丸:さあ、ここからは私、宇多丸が、ランダムに決まった最新映画を自腹で鑑賞し評論する、週刊映画時評ムービーウォッチメン。今夜扱うのは9月1日から劇場公開されているこの作品、『福田村事件』。

鈴木慶一さんの音楽も、すごいよかったですね。『A』や『FAKE』など数々のドキュメンタリー作品を手がけてきた森達也監督、初の劇映画。1923年9月1日に発生した関東大震災の混乱の中、実際に起こってしまった虐殺事件──でも9月6日ですからね。結構時間が経った後に、っていうことなんですよね──虐殺事件「福田村事件」を描く。出演は井浦新、田中麗奈、永山瑛太、東出昌大さん、水道橋博士、柄本明など、でございます。

ということで、この『福田村事件』をもう観たよ、というリスナーのみなさま、<ウォッチメン>からの監視報告(感想)、メールでいただいております。ありがとうございます。メールの量は、「多い」。賛否の比率は、褒める意見がおよそ7割。

主な褒める意見は、「今、この時代にこの映画が作られたことが良かった。今年最重要の1本」「扱ってる題材は重く凄惨だが、劇映画として面白かった」「俳優陣が皆、素晴らしい」などがありました。一方、否定的な意見は、「人物描写の掘り下げが浅い。特に虐殺に加担する側の人物たちをもっと掘り下げてほしかった」「セリフで説明しすぎている」「女性の描き方はいかがなものか?」などもございました。

「各人の“名前”を取り戻し無念を描ききれたのは、劇映画だからこそ」(リスナーメール)

代表的なところをちょっとかいつまんでご紹介しましょう。ラジオネーム「喜八郎」さん。「『福田村事件』、作品について書く前に。新潟での上映館“新潟・市民映画館シネ・ウインド”で20年来ボランティアをしています。森達也監督が学生時代を過ごした新潟には、熱心な森ファンが多いのですが……」。ああ、そうなのね。「想像を越えるヒットとなっています。一日二回の上映には劇場に入りきれないほどの方が来場し、翌日以降のチケットを買う方が列を成すほど。客層が多彩であり、終わった後も興奮覚めずに語り合う様子が見られます。

コロナ禍前でも無かったような盛況が、公開後、更に増している状況です。映画館に人が集い、何かが生まれている実感を、『福田村事件』を通して再認識する毎日です」。(先日宇多丸がトークイベントで行った)大阪のシネ・ヌーヴォもすごい入ってるっていう話ですからね。これはまずは喜ばしいことでしょうね。

「そして、永くドキュメンタリーを手掛けてきた森監督が歴史の事実を大切にしつつも、フィクションだから出来ることをやりきっているなぁ、と感涙しました。命を奪われた方々(実際にいたかも知れない朝鮮飴売りの少女が、高らかに自分の名を語る場面!)、殺戮を止められなかった者、殺人者となった者、そして事実を伝えきれなかった報道陣。それぞれの“名前”を取り戻し、無念を描ききることが出来たのは、劇映画だからこそと思います。虐殺シーンの抑制の効いた演出、荒井晴彦さん・井上淳一さん・佐伯俊道さんの共同脚本の熱量に、森達也監督の冷静な視座が加わったことで、幅広い層に届く作品になったように思えます」……このバランスってたしかにあるかもしれないですね。

「前半に福田村という閉鎖空間(日本のメタファー?)と外部から戻ってきた(共同体の常識にはもう戻れない)者の対比を丁寧に見せるからこそ、終盤の虐殺シーンに感情が溢れそうに。田中麗奈さんの浮遊感ある佇まい、インテリ男子の弱さを体現する井浦新さんと豊原功補さん(他人とは思えず)始め、俳優陣の充実も特筆します。絶望の果てに、それでも人間を信じたくなる、見事な一作でした」といったあたりでございます。ありがとうございます。

あとちょっとね、本当に皆さん、熱いのを送っていただいて。ちょっと時間の関係もあるんで、要約してお伝えをしますけれども。「肉と野菜」さん。この方、在日コリアンでいらっしゃって、その視点で観たという。で、要するに……「朝鮮人に間違われて虐殺された日本人の物語である」ということで。クライマックスの、先ほどから金曜パートナーの山本匠晃さんとか、私もちょろりと言いましたけど、瑛太さんの「あるセリフ」に至るまで、なんというか、「そういう問題か?」みたいな感じで話が進んでいくこと、みたいなものにいろいろ思いがありつつですね。その瑛太さんのセリフ。「監督が一番言いたかったのは、伝えたかったメッセージはきっとこのセリフなんじゃないでしょうか。なぜ森達也監督が朝鮮人虐殺そのものではなく、日本人が朝鮮人と間違われて殺された福田村事件に焦点を当てたのか、このセリフが物語っていると思います。『普通で良心的』な日本人の観客の多くはきっと日本人側の登場人物の目線でこの映画を見るでしょうから、あのセリフが刺さるんじゃないでしょうか。どうか刺さっていてくれ、刺さっていてほしいな・・・」みたいなね。

あとはですね、非常にその村という共同体を支配する「有害な男らしさ」みたいなものの話のことも書いていただいて。

これもすごく、なるほどその通りだ、というようなことも書いていらっしゃってますし。でもこの方も、女性の描き方についてはちょっと違和感があったりもしたかな、みたいなことも書いていただいてます。肉と野菜さん、ありがとうございます。

一方、ダメだったという方。こちらもご紹介しましょう。「すずききき」さんです。「もちろん、この映画がなければ事件のことを私も知らなかったし、フツウの人たちが虐殺を起こすことを描いたことは本当に意義深くて、この映画があってよかったと心底思います。あえて“否”にするのは、人物描写のところで、不安やすれ違いなどの葛藤を描くときに、性愛に回収し過ぎていないか?? と気になったからです。虐殺が起こるまでの過程を時間を取って描いて、特に殺す側の村人たちの暮らしが描かれているのは良いのですが、何組かのカップルがフィーチャーされてそのカップルの軋轢を描くのに、みんなセックスに持っていかなくてもいいだろうにと感じました。世の中の人はそんなにセックスに行きつくのか? そこに話を持っていくのがドラマのストーリーとして好ましいのか?? とアセクシャル傾向のある私には感じられました。」という。

で、いろいろこういうシーンには違和感を感じたよ、みたいなことを書いていただいて。「……その他、田中麗奈さん演じる静子の話し方とか表情が、甘ったるさがあまりに嘘くさくないかとか、女性新聞記者が周囲に立ち向かうのは良いけど、それも何かジャンヌダルク的にぱこっと背負わせていないかとか、女性の表象も型にはまっているように思えました。

私のような意見の方がほかにもいるといいなあと思います」。これですね、たしかに性愛に回収されてる部分が多いというのはおっしゃる通りだと思うし……これはまさに、脚本の荒井晴彦さんチームの持ち味の部分かな、と思って観ていて。それで劇場パンフを読んだらね、割と森監督も、「そこは完全に荒井さんたちのテイストの部分です」なんてことをおっしゃっていて。「まあ、そうでしょうね」っていう感じがしたあたりでございますが(笑)。

はい。ということで皆さん、メールありがとうございます。私も『福田村事件』、テアトル新宿で2回、観てまいりました。

近年の危うい「世の中の流れ」

非常にお客さん、入ってました。めちゃくちゃ埋まっていました。もちろん、「あの」森達也監督が初の劇映画!というこのバリューが大きいのもあるでしょうが、やはりそれ以上に、おそらく、今の「世の中の流れ」に、心ある方々が大きな危惧を抱いている、ということの現れでもあるんじゃないかと、劇場の雰囲気からも私は感じました。

で、じゃあそれってどんな「世の中の流れ」かといえば……すいません。映画そのものに行く前にどうしても、ちょっと前置きが長くなりますが、(その話を)しますね。あんまりそこを意識したことがない方もいらっしゃるかもしれないんで。

どんな「世の中の流れ」かといえば、それは当然、この番組でも先日、関東大震災から100年目の9月1日、金曜日のオープニングトークでがっつりお話したように……これがね、おなじみみやーんさんによる、非公式書き起こし(笑)、していただいてますんで。こちらも読んでいただければと思いますが。

1923年、関東大震災後に起こった、集団的・多発的な、朝鮮人・中国人に対する……あるいは「お前、◯◯人だろう?」的に巻き込まれた日本人の、虐殺事件。これが数々起こった。詳しくは、毎年おすすめしている加藤直樹さんの『九月、東京の路上で』という名著がありますので。とか、オープニングでも話したように、私が帯を寄せました後藤周さんによる『それは丘の上から始まった』という本などなど、非常に資料が、豊富に出ています。我々が絶対に胸に刻み刻んでおかねばならない、歴史的事実に関する良書が山ほど出てますんでね。当番組をお聞きいただけてるような方は、ぜひ……ちょっと押し付けがましく聞こえたら申し訳ないのですが、「ぜひ、必ず」、お読みいただくといいかなと思います。

とにかく、公権力やマスコミによって後押しされてしまった、デマとか流言飛語。そのベースにある、元からの差別意識と、裏腹の後ろ暗さとか恐怖……などなどによって、普通の人々、あるいは警察や軍隊が、寄ってたかって、なんというか「こいつだ!」っていう風に人を指差しては、殺しまくっていた、と。そんな恐ろしい、恥ずべき、日本近代史の汚点中の汚点とも言うべき事態。言うまでもなくこれは、公的資料を含めですね、ありとあらゆる角度からの記録が、残りまくっているわけですね。今も、調べれば調べるほどザクザク出てくるし、だからこそ本がこんなにいっぱい書かれていたりするわけですけれども。あ、ちなみに、「そういう事実はなかった」本とかも出てますけど、それがいかにインチキであるかということも、加藤直樹さんの『TRICK トリック』という本の中で、もう完膚なきまでに書かれておりますので。ぜひそちらも読んでいただきたいですが……もし、そっちを信じちゃっている人がいるならね。

にもかかわらず。その9月1日の番組オープニングトークでも話したようにですね、たとえば松野博一官房長官が、8月31日の記者会見で、関東大震災後の虐殺について、「政府内で事実関係を確認できる記録が見当たらない」という、はっきり事実と反するような……だって、内閣府が2008年に出した報告書とかもあるわけですから。要は、しらばっくれスタンスというか、そういったことを公言されて。つまり、これが岸田内閣の公式スタンス、ということで。岸田内閣というのはそういうことを言う人たちなんだ、ということなんですけれども。ねえ。内閣を改造したって、松野官房長官は残っているわけですから。引き続き、「ああなるほど、そういうしらばっくれで……『知りません』というようなことを言う人たちなんだ」っていう。僕の感覚ではもうこんなの、普通だったら、一発アウトで公職退場級の大暴言だと思いますけど。

ちなみに5月24日には、警視庁の楠芳伸官房長も、「事実関係を把握できる記録は見当たらず、確認しても内容を評価することが困難だ」ということをおっしゃっていて。内閣府が2008年に出した報告書とかも含めて……あるいはね、過去の警察に届けられたいろいろなものとか、あとは裁判とかも起こってるわけですからね。それらも含めて、「評価することは困難」なんてことを言ったら、もう全ての「公的資料」っていうのは意味をなさなくなるんじゃないか、という。非常にこれも、大変な問題発言だと思うんです。

要するにその、政府がすごく、しらばっくれるような態度を近年、取り始めている。小池百合子都知事とかも、「諸説あるんで」なんていう……要は事実から目を背け、しらばっくれる、というような態度をとって。もう何年も、朝鮮人追悼式典への追悼文を、形式的に送ることさえ、しなくなってしまった。そのような……要は過去の過ちから全く学ぼうとせず、逆に「我々は悪くないもん!」という子供じみた言い草で全部乗り切ろう、というのが、なんなら「愛国的」なスタンスでござい、というような。まさしく「恥の上塗り」というのがふさわしい……とにかく、これ以上恥の上塗りをしないでくれ!って言いたくなるような、ひどい話。のみならず、今後のこの国のあり方を、非常に危なっかしい方に持っていってしまうような、そういう「世の中の流れ」というのが近年あって。

しかし、それを強く危惧する心ある方たちというのも、この日本にはたくさんいるからこそ、この『福田村事件』が各地で大入り満員、ということになってるんだと思います。なので、これは希望がある話だと思います。ということでですね、先々週『バービー』、先週が『オオカミの家』と、私ね、「今年必見の一本」みたいなことを連続で言っていて。西寺郷太くんばりに言うと、なんか嘘ついてるみたいなっちゃってますけど(笑)、違います。本作もやはり、特に我々日本に暮らす者にとっては、間違いなく絶対観ておくべき、最重要の一作であることは、まずは間違いないと思います。

「伝えてゆかねばならない」という意志、その長年のバトンタッチが結実した映画化

前置きが長くなっちゃいましたんでサクサクいきますけども。森達也監督。『A』や『A2』『FAKE』など、ドキュメンタリーで知られてきましたけれども。実はですね、大学時代は、いわゆる「立教ヌーヴェルヴァーグ」ど真ん中。黒沢清さんとかが出た、立教ヌーヴェルヴァーグど真ん中で映画を撮られていたような方で。なので、ずっと劇映画的な志向というのはあった……みたいな話はですね、大変充実した劇場パンフレットの中の、番組でもおなじみ森直人さんによる監督インタビュー、これ、非常にわかりやすく充実してますんで、こちらを読んでいただくとしてですね。

とにかく森達也さん、以前からその作品や著述などでですね、普段は心優しい穏やかな人物が、条件が揃ってしまえば、とんでもない凶悪な虐殺行為などをできてしまうのはなぜか? そのメカニズムを、たとえば『A』であればオウム信者たち……もちろんオウム信者たち一人一人は善良な青年なのに、おそらく彼らも命令されれば、ああいうことをやっていただろうと。それはなぜか?ということであるとか。それと同時に、一方で、たとえばオウムだったら、「彼らは極悪人、極悪集団なんだから、何をしたっていいんだ!」みたいな……「原理原則、法律なんかはすっ飛ばしてやったっていいんだ!」みたいな、そういう風になってしまう社会の心理、みたいなものも合わせて、森達也さんはずっと考察されてきたわけです。

なので、これもパンフなどに記述も多いので省きますが、関東大震災後のその虐殺に目を向けるのは、ある意味必然、という風にも言えるかと思います。特にこの『福田村事件』は、民族差別に加えて、被差別部落の問題も重なる、ある種日本社会の差別意識の複合体というか、象徴でもあるような事件でもあるのでね。

で、この『福田村事件』については推薦図書が多くなっちゃって申し訳ないけど。辻野弥生さんという方が書かれた、特に現在手に入りやすい、『福田村事件―関東大震災知られざる悲劇』。こちら、五月書房新社というところから出てますんで。こちら、今回の映画を観てガツンと来たという方は、ぜひぜひ、必ずこちらも併せてお読みいただきたい。実際の事件の真相……今回は要するに、中の細かいところはフィクションですから。被害者の方の人物構成とかは元に基づいてますけども。なのでぜひ、元もどういう事件だったかは学んでいただきたいんですが。とにかく、それがある。

で、森達也さん、一度はこれをテレビドキュメンタリーにしようと思ったけど、企画が通らず。ただ、長編ドキュメンタリー映画にするには、存命する当事者もいないので、ちょっと弱いということで、とりあえず2003年のエッセイ集『世界はもっと豊かだし、人はもっと優しい』の中の一章として、これを書いた。そしたら、それを読んだフォークシンガーの中川五郎さんが、「1923年 福田村の虐殺」という曲を作った。それを、今回の脚本の荒井晴彦さんとか井上淳一さんがたまたま聴いて、映画化を決意した、という……で、いろいろあって森さん自身が監督することになる、という。要は、「このことを何とかして伝えてゆかねばならない」という強い意志のバトンタッチが、長年かけて映画作品に結実した、っていうか。だからこの流れ自体、ちょっとアツいな、みたいな感じがありますよね。

実際、さっきも言ったようにですね、「あの森達也さんの初劇映画」というのが大きなバリューとなって、資金や客が集めやすくなったところもあるでしょうし。先ほどのメールにもあった通り、やっぱり荒井さんチームの視点だけではない、その森達也さんの視点・視座みたいなものが入ることで、さらに作品のバランスというのが、広く観られるにはよくなったところも絶対あるでしょうから。これ、本当によかったな、という風に思います……というぐらいに、土台となる志に負けないぐらい、ストレートにすごく「いい映画」になってます。

「虐殺のメカニズム」を多層的に浮かび上がらせる、精緻な群像劇!

まず、群像劇という形式がですね、この題材に対して、とても的確な機能を果たしてるのが素晴らしいと思います。要はこの事件の本質に流れている、日本社会的な様々な歪みの諸相、というのを、多層的・多面的に描き出していくことで、まさにさっき言ったような、普段は善良な普通の人が、なぜこんなことをしでかしてしまうのか? 虐殺が作動するに至るメカニズムが、非常に浮かび上がってくる作りになっていて。これがすごく見事だと思いました。

たとえば、虐殺に直接加担した人たちの中でも……もちろん、「感じ悪いな」みたいなのはありますよ。ただ、元々人をめちゃくちゃ殺すような人には見えないじゃないですか。「感じ悪いな」ぐらいはありますけど、元々そういう殺人者……「こいつは元々、人を殺しかねないやつなんだ」っていう風に単色で描かれないのはもちろんのことですけど、それぞれに異なる事情、動機、あるいはテンションの違い、みたいなものがあって。その積み重ねの果てに(虐殺が始まってしまう)スイッチがある。だから、たとえば割とワッと行く人もいれば、横を見て「ああ、行くしかない」で行っている人もいる、みたいな。あとは「あんた、やんないのか?」「や、やるよ……やるよ!」みたいな人もいる、みたいな。ある人は、共同体に対して自分の勇ましさを証明しなければならない、という風に思い込んだ果てに、手を下してしまう。ある人は、たとえば進歩的な考え方をするインテリそのものに対する反感が、まずベースにある。そこにはひょっとしたら、都市と地方の格差の問題、っていうのもあるのかもしれない、みたいな、そんな層もあるし。

被害者である、その香川から来た行商人の一団の中でも、たとえば朝鮮人に対する差別意識がある人もいる。逆に人権意識に目覚めてる人もいる。それぞれにグラデーションがある。でも、その朝鮮人に差別意識を抱いてるっていうのも、そもそもその差別されてる側だから、もっと何か下を……だから、悲しい差別の構造、みたいなものも浮かび上がってくるし。

また、マスコミや公権力がらほとんど意図的に朝鮮人や社会主義者に対する恐怖と不安を煽っていたんだ、ということも、ちゃんと射程に入れている。その背景にあるのは当然、日本の植民地支配であるとか、政府の思想弾圧……たとえば途中で、いわゆる「亀戸事件」っていうのが描かれるパートが、短くですが、入っていたりして。

つまりまさしく当時の「世の中の流れ」。さっき、言いました。今の「世の中の流れ」がやばい、って言いました。「世の中の流れ」っていうのの責任にも、ちゃんと射程が及んでるところも、さすがと言わざるを得ないあたり。

「勇ましさ」の同調圧力と対比される、性愛という自由領域

その上で、しかし大変普遍的な問題として浮かび上がってくるのは、たとえばさっき言ったような、共同体に対して「勇ましさ」を証明しなければ一人前と認められない、みたいな、下手すれば村八分になってしまう、というような、マッチョな同調圧力というやつですね。これ、今も全然続いちゃってますけどね。そしてそれと表裏一体の、女性たちの生きづらさ、みたいなところ。

で、そこから比較的距離を置いている人々、たとえば、東出昌大さんとか、コムアイさんとか……コムアイさん、すごいよかったですね! あとは田中麗奈さん演じる三者が(※宇多丸補足:要はこのお三方とも、役柄的に美味しいというのもあって、すごく輝いてました! 特に東出さんの言ってみればスケールのでかい色気、めちゃくちゃハマっていました)、性愛に束の間の自由を見出していく、というような感じのバランスで描かれていて。これはまあやっぱり、荒井晴彦さんチームっぽい作りだなと思ったら、やっぱり森達也さんのインタビューによれば、「僕からそういう発想は絶対出てこない」っていう風におっしゃっていて。まあ、そりゃそうでしょうね(笑)。

一方、森さんの監督としての演出力。たとえば「川」の使い方であるとか、とってもうまいし。普通にうまいなって……すいません。失礼な言い方だけど(笑)。森達也さん、劇映画としても、普通にうまいです。

でですね、一方、いわゆる「提岩里教会事件」という、これがどういう事件かは劇中の後半でも語られますが、その事件に立ち会っていた井浦新さん演じる元教師であるとか、豊原功補さん演じる大正デモクラシーにシンパシーを寄せる進歩的な村長など、インテリ男っていうのはやっぱり、いざとなるとなかなか不甲斐ない、みたいな。これは、この映画を観に行ってる男性の大半はたぶん、こういうスタンスだから(笑)。ここがちょっと「お前は見てるだけなのか?」っていう風に、やっぱり言われてるわけですね。

まあ、「政治的・思想的挫折を、性的不能感みたいなものに重ねる」っていう、これもすごく荒井晴彦チームっぽい、荒井晴彦チーム節、っていうあたりなんでしょうが……ただ個人的には、これはこれでなかなかマッチョな発想じゃないかな?っていう風にも思ったりします。だから先ほどのメールにもあった通り、何でもかんでも特に男女の性愛に落としてく、っていうところは、今の感覚で言うと、それ自体がちょっとだけ昔っぽい、男性左翼的っていうか、そんな感じの構図かなとも思うけど……っていうね。ただ、この作劇そのものは、もちろん何か(理が)あるのはわかりますけれども、という感じですかね。

“殺していい人間”など、いるのか?という普遍的な問い

ともあれ、事が一通り終わってからの、あの豊原さん演じる村長の、「俺たちはずっとこの村で生きていかなきゃなんねえんだ……だから、書かないでくれ」っていう。これ、今の日本社会にも全然通じる……要するにある種の歪みが残ってしまう(構図を示す)、もうめちゃくちゃリアルなセリフだと思うんですよね。キャスト陣、全員素晴らしいです(※宇多丸補足:特に、前述した「勇ましさ」への強迫観念など、共同体的同調圧力の歪みが様々な面で集約されていると言える、松浦祐也さんと向里佑香さん演じる夫婦の重要さについて、放送内では言及しきれなかったのが悔やまれます!)。プラス、やっぱり森達也さんの、「ここぞ」という表情を引き出しとらえる演出が、本当に素晴らしいんだと思いますが。

特に僕はですね……水道橋博士! 在郷軍人会の分会長ということで、要は都会インテリチームへの反感で、まあイキり散らかしてる人ですけど。水道橋博士、まず、登場した瞬間の、ちょっと……言っちゃえば、失礼ですけどちょっとちんちくりんな佇まいとか、それでイキり散らかす滑稽さ。でも最後に、あの慟哭……つまり、彼は彼で哀れだ、っていうのが生々しく立ち上がってくる感じ。本当に素晴らしかったです。さぞかしご負担だったろうと思います。こんな役をやるのは。博士、よかったよ! すげえよかった! そう思います。

ということで、こうして日本社会の様々なレイヤー、様々なグラデーションというのを積み重ねながらですね……あの「9月1日」ってダーン!と日付クレジットが出る、不吉な演出もすごく良かったですね。虐殺のスイッチが入るまでを丹念に描いていく、その説得力。やはり積み重ねたレイヤーを……「この人はこれがあるから」「この人はこれがあるから」って。「この人はこれがあるから、ちょっと後押しすれば危ないぞ……ああ、いろいろ条件が整っちゃった!」みたいな感じ。

あと、元は善意のバトンタッチだったはずの小道具が、皮肉に機能するあたり。まあ、正直ベタではあるけども、でもその元は善意の、民族を超えた交流だったものが……という悲しさが際立つので。僕はやっぱりこういうのも映画的演出として……僕はちょっと来るものがありましたけどね。

で、スイッチが入ってしまってからの音楽、鈴木慶一さんの音楽がですね、ここは太鼓がバンバンバンバン鳴りだしてですね。祭り感……おそらく、本当に祭り的な高揚感、祭りの非日常感みたいなものが入っての、やっぱりちょっと度を越した何かだったんだろうな、って。これも我々、条件が揃えばこうなってしまうかもしれない何かというか、高揚感とともに何かをやってしまうということ(が、この音楽演出で示されている)。

その虐殺が始まる直前、ある人物によって放たれる、「殺していい人間の命なんか、あるのか?」っていう(意味合いの問い)。先ほど言ったようなレイヤー、グラデーションを超えた……いろんな事情とか、いろんな積み重ねもあるのはわかるけども、「ちょっと待てよ、それ(“殺していい人間”などいないのだということ)は大原則じゃねえのか?」っていう普遍的な問い。常に我々は、胸に刻まなければいけない。それは、どんな状況であれ、ですね。

松野官房長官、小池都知事含め、全国民必見!

我々、あるいは我々の子供たち、あるいは我々の子孫たちが、再び恥ずべき虐殺者、恥ずべき卑怯な殺人者にならないために、してしまわないためにも、もちろんこの話を伝えていくことは大事ですし……そういう事実の掘り下げ。あるいはその、事実の考察ですね。やっぱりその、ドキュメンタリーではできない、各人のその心情的な変化……現実にもいるような登場人物たちがいっぱい出てきますんで。特にやっぱり、しょうもない男たち、みたいなところは、すごく(今の現実社会にも)引き継いじゃっている部分、いっぱいあるところなんで。こういう作品が作られる意義はめちゃくちゃある。あと、ストレートに映画として、「ちゃんと面白い」んで。よくできてるんで、ぜひこれは観ていただきたい。

この「観ていただきたい」というのは、たとえば、松野博一官房長官であるとか、小池百合子東京都知事……都知事はもう、都庁からすぐの、テアトル新宿でやってますんで! 回数、結構いっぱいやってますんで! なんなら僕、チケットをお取りしましょうか?(笑)みたいな感じで……観た上で何を言うかは、ちょっと見物ですけども。といったあたりで、日本に住む、暮らす者であれば、万人に……もちろん、映画としての表現のバランスとかにいろいろご意見があるのはわかるけども、必見であることには変わりないと思います。『福田村事件』、ぜひぜひ劇場でウォッチしてください!

宇多丸『福田村事件』を語る!の画像はこちら >>

(次回の課題映画はムービーガチャマシンにて決定。1回目のガチャは『名探偵ポアロ ベネチアの亡霊』。1万円を自腹で支払って回した2回目のガチャは『ほつれる』。よって次回の課題映画は『ほつれる』に決定! 支払った1万円はウクライナ難民支援に寄付します)

以上、「誰が映画を見張るのか?」 週刊映画時評ムービーウォッチメンのコーナーでした。

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