毎週月曜日は東京新聞との紙面連動企画。今週と来週は『2025年戦後80年』という特集記事を取り上げます。

まず、今週は、さいたま市の女子大生が、卒業研究で、1945年8月14日深夜から15日未明に行われた熊谷空襲をテーマにした、映像のドキュメンタリー番組の制作に取り組んでいる、という記事に注目しました。

さいたま市在住なのに、全然知らなかった熊谷空襲

小学生のときに読んだ「はだしのゲン」をきっかけに、戦争に関心を持ち、その後も戦争をテーマにした映画などを積極的に鑑賞してきた、という、目白大学メディア学科4年生、22歳の松田みなみさん。

さいたま市の大学生 熊谷空襲を記録映像にの画像はこちら >>
<大きなバッグなど荷物を3つ?4つ?担いで取材から戻った松田さんでした。>

卒業研究の戦争に関するテーマを、なぜ熊谷空襲に注目したのかお聞きしました。

目白大学メディア学科4年生 松田みなみさん

「さいたま市に住んでたので、まず、さいたま市内の空襲のことを調べたんですけど、あんまり情報が無くて、で、そこから広げて、熊谷の空襲が出て来て『最後の空襲』とネットで調べた時に出ていて、え?みたいな、やっぱり8月15日で終戦だって、みんな一番印象が強いと思うんですけど、実はその前日、前夜からこんなに大きい空襲があったんだぞ、っていうところで、みんな知らないし、私も知らないしっていうところで、伝えなきゃいけないなっていうのを感じました。色々見てきたはずなのに、そんなことあるんだっていうか、自分が知らなかったっていうのも、自分としてはびっくりしたというか、県内でそんな話聞いたこと無かったって思っていて、授業でやってもいないですし、そこで結構驚いたっていうんで、調べてみようって、なりました。」

戦争に関心を持って色々見てきたつもりだったのに、身近な空襲を知らなかったことがキッカケ。同じ埼玉県の空襲なのに聞いたことも無かったということに驚いた。

「最後の空襲」という言葉も知らなかった松田さんは、早速、熊谷空襲の継承活動をしている「熊谷空襲を忘れない市民の会」に連絡をして、取材を始めました。

若者による熊谷空襲の次世代への継承という貴重な取り組み

その市民の会を通じて、松田さんの取組みを知り「松田さんの取材の様子」を取材して、記事を書いたのが、東京新聞さいたま支局の菅原洋記者。松田さんの取組みと、紙面『戦後80年』の取材についてお話を伺いました。

東京新聞さいたま支局 菅原洋記者

「弊紙は埼玉だけじゃなく、戦争に反対して平和を重視する報道に一貫して、日々、取り組んでおります。戦後80年という今年は一段と力を入れて、松田さんの記事もそうですが、それ以外にも熊谷空襲の取材を進めており、色んな市民の思いを特別に感じてるところです。

この若者たちの戦争への関心が薄いと言われてる中で、松田さんの取組みが熊谷空襲の次世代への継承という貴重な取り組みであるという面がございます。そこにやっぱり今回、松田さんの記事を書いた重要性を感じたために取材したわけです。

ただ、こういう若者がたくさんいたら、逆に言えばニュースにならないわけです。若い方が積極的に戦争に関心を持つというのはなかなか難しいところでして、ですから、彼女のニュースがこうやって出たり、もしくは彼女がYouTubeで作品を公開するわけですから、それはやっぱりどんどん他の若者に波及していったりするようなことはあるんじゃないかなと思いますけれども。

その一方、お年寄りの方もどんどん亡くなってますので、なかなか今回取材は難しかったというところもございますね。今、やってますけども、戦後80年の取材に取り組んでますが。なかなか取材は難しいですね、今は。」

若い人に向けて、若い人が動いているのは、とても貴重ですよね。

しかし、いわばプロの菅原さんも取材相手を探すのが大変になっている、と実感をしながら、戦後80年の取材を続けているわけで、松田さんも体験者を探すのには非常に苦労しました。

実際の話を、話し方や間も含めて残して伝えたい

市民の会の協力で、なんとか3人の方に直接お話を聞けることになった松田さん。体験者の方に会ってお話を聞いた直後にお話を聞きました。

目白大学メディア学科4年生 松田みなみさん

「これ以上遅れたら、ホントに誰もいなくなっちゃうんじゃないかなっていうのも感じます。

実際、今、防空壕なんて全然身近じゃないから、なかなか想像できないと思うんですけど、すっごい蒸し暑くてもうホントに息が出来ないくらいというお話をする方もいるので、そういうのは体験したからこそ言えることなんじゃないかなというので、実際の話を聞くっていうこと、大事だなって思います。

文章で残されてるものもありはするんですけど、話し方でしか伝わらないものとかもあったりするのかなと思いますし、喋ってる時の間、みたいなのもなかなか文章では残せないのかなっていうのが。やっぱりその感情みたいな部分が見えるので、本当に辛かったっていうのが言葉でヒシヒシと伝わってくるっていうのもありますし、言葉に詰まってお話されてる部分とかも資料だけじゃ分からないことなので、そういったところでは、私がやってる、その映像で残すっていうのは、何か意味があるんじゃないかなっていう風には思います。」

映像でなら、体験者の言葉だけでない感情も伝えられるのではないかというのが一つ。

そして、若い人の目に留まりやすいのは、やはり映像かな、と考えたそうです。

体験者のインタビューだけでなく、市内の戦跡めぐりに参加したり、16日に行われる、空襲犠牲者を追悼する灯篭流しも取材する予定で、幻想的な情景が撮影できそうで、目に留まる、目を引く映像から若者に関心を持ってもらいたい、と話していました。

完成作品はYouTubeで配信する予定。知ってもらうのが、一番、継承のための第一歩かなと思うので、誰かの目に留まったらいいなと、何度もおっしゃる松田さんが、とっても印象的でした。

ちなみに、卒業後はテレビの映像制作会社への就職が決まっており、菅原記者は、戦争と平和の記憶とその伝承、そして報道に熱い思いを持つ若い力に、期待していました。

戦後80年、経験者が減る中で、何を取材して伝えていくか。 取材して残していく、その意義はますます大きくなりますね。

松田さんの作品を見るのを楽しみにしています。

(TBSラジオ『森本毅郎スタンバイ』取材・レポート:近堂かおり)

編集部おすすめ