第2次世界大戦の前半、イタリア戦闘機の主力を務めたアエル・マッキ社製のMC.200型。当初その操縦席は、近代的な水滴型のガラス風防に覆われていましたが、初期生産後は開放式に「退化」しています。

いったいなぜ風防を外してしまったのでしょう。

水上レース機から生まれた戦闘機

 20世紀前半、黎明期の飛行機には、操縦席を覆う風防(キャノピー)は見られません。これが装備され始めたのは、おおよそ1930年代後半のことです。一般的に、風防のある飛行機のほうが近代的なイメージもあるかもしれません。

 ところが、この頃の飛行機には、開発途中の試作機の段階で密閉風防を備えていたにも関わらず、制式化後の量産型ではあえて開放式に改められた機体がいくつかあります。今回は、そのなかでも比較的知られたイタリアのMC.200型戦闘機を見てみましょう。

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1941年2月、第4航空団所属のMC.200型。水滴風防は撤去されて開放式の操縦席となり、胴体は操縦席の背中から尾部に繋がる形状に変更された(吉川和篤所蔵)。

 そもそもMC.200型戦闘機が生まれる端緒となったのは、ヨーロッパで第2次世界大戦が始まる前の1936(昭和11)年、イタリア空軍が戦力の近代化を計ろうと立案した「R」計画です。このプランを発表したうえで、イタリア空軍は国内の航空機メーカーに新型戦闘機の開発を要請しました。

 そのうち単葉機案の内容は、金属製で低翼の引込み脚を備えていることなどが条件として盛り込まれており、フィアットやカプロニ、レッジアーネ社などが名乗りを上げますが、これら名門メーカーとともに新興のアエル・マッキ社も手を挙げます。

 新興とはいえ同社は、大戦間期にイタリア、イギリス、アメリカの3か国間で開かれた国際水上機レース「シュナイダー杯(シュナイダー・トロフィー・レース)」に数々の機体を送り出していました。

そのようななか、1934(昭和9)年10月にはMC.72型が709.2km/hの世界記録を樹立。これは現在もレシプロ水上機としては不動の記録です。

 これら水上機を設計したマリオ・カストルディ技師が、イタリア空軍の「R」計画に参加して作り上げた新型機が、1937(昭和12)年12月に初飛行したMC.200型「サエッタ」でした。「MC」は「マッキ=カストルディ」を、「サエッタ」は稲妻や矢を意味します。

水滴型の密閉式風防から開放式へあえて「退化」したワケ

 アエル・マッキが開発したMC.200型戦闘機は、名門フィアットのG.50型戦闘機やレッジアーネのRe.2000型戦闘機よりも高性能で、最優秀機の判が押されて主力戦闘機になります。

 この成果こそ、水上機レースで実績を積んだカストルディ技師の設計の優秀さを示したのでした。

キャノピーあると邪魔!? 開放式操縦席の方が高評価だったイタリア戦闘機MC.200とは

1942年2月、ロシア戦線スターリノ基地における第22独立航空群所属のMC.200型。前方が傾斜して猫背に見える独特なシルエットだった(吉川和篤作画)。

 しかしMC.200型戦闘機は第3シリーズ初期型の生産機まで、空力的に優れた水滴型でスライド式のガラス風防を装備していたものの、その後の生産された機体では、なぜか空気抵抗も増す前面風防のみの開放式に仕様変更されてしまいます。

 現代の目で見ると、ある意味「退化」に思えなくもない改修ですが、これには真っ当な理由がありました。

 当時、風防に使われたプレキシガラス(アクリルガラス)はまだ透明度に問題のあるもので、なおかつ製造技術の限界からガラス面(透明部分)を大きくとることができず、フレームの多い設計とならざるをえない構造でした。そのため、風防があると逆に視界が遮られるとパイロット達は主張したのです。

極寒でも戦い続けた開放式風防の戦闘機

 こうした「退化」の例は、他のイタリア製戦闘機でも見られました。例を挙げると、フィアット製のG.50型戦闘機も試作機では密閉式風防を装備していましたが、1930年代後半に勃発したスペイン市民戦争(スペイン内戦)において、現地に派遣されたイタリア空軍部隊では不評であったため、量産機ではMC.200と同じようにあえて開放式に変更されています。

 似たような話としては、旧日本陸軍戦闘機において、空戦中は視界確保のために風防を開けたという証言が残っています。しかし、この場合も戦闘空域までは空気抵抗による速度低下を嫌って閉めていたとのことなので、現場の要望を聞き入れて風防そのものを開放式にしてしまったイタリア空軍の事情は特異な例といえるのかもしれません。

キャノピーあると邪魔!? 開放式操縦席の方が高評価だったイタリア戦闘機MC.200とは

イタリア帰還前の1943年春、ロシア戦線で出撃を行うMC.200型。厳しい冬を戦い抜いたため、塗装もかなりくたびれた状態である(吉川和篤所蔵)。

 しかし開放式の操縦席は灼熱の北アフリカではまだしも、極寒の地では勝手が違ったようです。第2次世界大戦においてドイツがソ連に攻め込むと、イタリアもドイツの同盟国として部隊を派遣します。その一環で空軍戦闘機部隊も1941(昭和16)年8月に派遣されますが、対ソ戦線の冬期、パイロットは飛行中マイナス数十度の寒気に曝されることになりました。

 開放式の風防のため、寒くてもパイロットは耐える以外に選択肢はありません。それでも延べ69機のMC.200型戦闘機は戦い続け、1943年5月に本国へと帰還するまでのあいだに15機の被撃墜と引き換えに88機を撃墜する戦果を挙げています。

 とはいえ、プレキシガラスの加工精度の向上や、航空機自体のさらなる高速度化などによって、MC.200の改良発展型であるMC.202戦闘機では完全密閉風防になり、フィアットなど他メーカーの戦闘機含め、第2次世界大戦半ば以降に登場した新型機では、開放式風防は姿を消しました。

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