現代の戦車にも見られる砲塔上のカラーランプ、実は旧日本陸軍の戦車にも同様の装置が搭載されていました。それは赤・黄・緑色の組合せから「信号灯」と呼ばれて、夜間や無線封鎖時の通信手段に使われていたのです。
陸上自衛隊の戦車などが実弾射撃を行う富士総合火力演習に行くと、昼間演習では戦車砲塔上の緑色の小旗が発砲直前に赤色の小旗に切り替わり、夜間演習ではこれが緑色と赤色に光るランプになるのが見られます。実はこうしたカラーランプ、太平洋戦争中の日本戦車にも見られました。
千葉陸軍戦車学校で整備訓練中の九七式中戦車。車体後部には、緑・橙・赤の3色の円い色ガラスが横一列に並んだ後部用の信号灯(円内)が確認できる(吉川和篤所蔵)。
戦前の日本戦車はまだ無線装置の搭載が進んでおらず、おもに砲塔の展望塔ハッチから身を乗り出して赤白の小旗を振り、各車との相互連絡や命令伝達を行っていました。
しかしこの方式だと夜間は使用できず、また昼間であっても霧や雨の気象条件で見え方が左右されました。そこで1937(昭和12)年7月に始まった日中戦争の頃には、無線機の小型化が進んだことで、試験的に八九式中戦車や九五式軽戦車への無線搭載が始まります。
その結果、1937(昭和12)年に仮制式化された九七式中戦車(チハ)で、ようやく無線機が標準装備となったのです。一見すると手すりのようにも見える特徴的な円形アンテナが、砲塔上面にぐるりと囲むように設置されましたが、それとは別の通信手段も用意されました。
砲塔上に載せられた信号機九七式中戦車を捉えた写真のいくつかには、砲塔上面の展望塔左側に棒状の器具が見えるものがあります。これこそ無線機とは別に装備された取り外し式の通信装置でした。
器具は鋼管を切削したケースの内側に、上から緑・橙(黄)・赤色の色付きのガラス管が電球と共に入っており、取り付け部分には緩衝バネが入っていました。

旧満州(現在の中国東北部)にあった四平陸軍戦車学校で、主砲を外して訓練中の九七式中戦車。戦車長が身を乗り出す展望塔横には、砲塔用信号灯(円内)が装着されている(吉川和篤所蔵)。
なぜ無線機があるのに、このような発光式の通信装置を装備したのでしょう。それは無線機を搭載していても、隠密行動する際には電源を切っているので、先の手旗信号と違い視認できる通信装置が必要だったからです。また当時の九六式四号戊無線機は通信距離が1km程度しかなく、夜間なら発光信号であっても、条件さえ良ければかなり離れた位置からでも視認できました。
この3色に切り替わる発光方式は、道路にある一般的な信号機を思わせることから、「信号灯」と呼ばれたそうです。なお前出のように脱着可能なため、普段は専用箱に入って車内に収納されました。
戦車のお尻にも付いた信号機車体後部中央には、さらに見た目が道路用信号機に似た「後部用信号灯」が設置されていました。こちらは取り外しできない常設の装備で、小さな3色のガラス円が横一列に並んだ形状をしていたものの、色の配列は三菱重工製と日立製作所製が橙・緑・赤の並びで、相模造兵廠製が緑・橙・赤の順とメーカーによる違いがありました。

砲塔回りにハチマキ式アンテナを装備した独立戦車第十四中隊所属の九七式中戦車。砲塔上部にある展望塔の脇(赤い矢印)には、棒状の信号灯が見える(吉川和篤作画)。
現代の戦車にも通じる、意外に先進的な装備の信号灯ですが、砲塔用を使用した場面を映した写真は少なく、主に戦車学校の訓練やパレードでの装着例が見られる程度です。しかし太平洋戦争後半に起きたサイパン島の戦いでは、撃破された何両かの九七式中戦車に砲塔用の信号灯が取り付けられているのが確認できます。このことから、同島の夜間戦闘などで無線封鎖時の組織的な運用が推測されます。
夜間に有効だと認識されていたからなのか、砲塔用の信号灯は太平洋戦争中に旧日本海軍が開発した水陸両用戦車の「特二式内火艇」にも搭載されています。同戦車は、夜間の上陸作戦なども行っているため、もしかしたらその際に使用されたかもしれません。