戦前、プロペラ駆動のレシプロ機から次世代のジェット機への進化の過程では、新たな理論に基づいて様々な試作機が各国で開発されました。そうした中、イタリアでも特異な形状の試作機が空を飛んだのでした。
第1次世界大戦で飛躍的に性能向上を果たした飛行機ですが、1930年代になると世界各国ではレシプロエンジンとプロペラによる推進機関を進化させ、より高速飛行が可能な実験機の開発が検討されます。
その流れはイタリアも同様。1900(明治33)年に同国南部マルケ州で生まれた航空技師ルイージ・スティパも、世界に先駆けてこの課題に取り組んだひとりでした。
ダクテッドファン実験機としてカプロニ社で製作されたスティパ機。太い筒状の胴体や上部の2人乗り座席に注目。垂直尾翼は改修されて初期試作より大型化している(吉川和篤所蔵)。
第1次世界大戦の終結から10年後の1928(昭和3)年、イタリア空軍の航空技術学校に勤務していたスティパは、ある学説と出会います。それは19世紀に自国の物理学者ジョバンニ・ヴェントゥーリが発表した「ヴェントゥーリ(ベンチュリ)管」理論で、ダクトに水や空気の流れを通す途中で狭い個所を作ると、そこで絞られたエネルギーが増幅して放出されるというものでした。
この作用に着目したスティパ技師は、胴体をダクト化した航空機の特許を取得します。彼の理論は先に外国の航空業界で注目を集め、それによって自国のイタリアでも認められるようになったことで、実験機の試作をイタリア空軍省に提言し、1930年から実機の開発が始まりました。
ついに具現化された新航空理論実は、胴体そのものをダクト化したダクテッドファン機のアイデアは古くからあり、ライト兄弟が初飛行する10年前の1893年、チェコのグスタフ・フィンガー技師も同様の理論で航空機開発を目指しています。
もしこれが成功していたら、航空機開発の歴史は一変していた可能性が考えられますが、フィンガー技師の航空機開発は資金が集まらずに中止されてしまいます。

スティパ・カプロニ機(MM.187号機)。着陸脚にスパッツが付いた後期タイプで、太い筒状の胴体は青と黄色のツートンで塗られ、スティパ・カプロニの名前が赤色で描かれている(吉川和篤作画)。
それから35年余り経ったイタリアでスティパ技師が実機の開発を始めたのです。実験機の製作はミラノのカプロニ社が担当し、タリエドの工場で進められました。機体は樽を思わせる極太い筒型胴体の中翼機で、上部に開放式の2人乗り座席が設けられました。
とはいえ、飛行機なので空気の流れを生み出さないと飛べません。そのため胴体内部にはイギリスのデ・ハビランド社製エンジン(120馬力)が搭載され、それでプロペラを回して推進力を得る構造でした。
「ビア樽」ミラノの空を飛ぶ1932(昭和7)年に完成した試作機(MM.187号機)は、そのユーモラスな形状から「空飛ぶ樽」や「空飛ぶ桶」と呼ばれます。
同年10月7日にタリエド工場で初飛行を行い、そののちイタリア空軍が首都ローマ近郊のモンテチェリオ飛行場でテストしました。本機は外観形状こそ特異でしたが、飛行は非常に安定性が高かったとのこと。なぜなら、このダクト式胴体の翼形状に似た断面が高揚力を生んだからで、なおかつ着陸速度も68km/hと低く、着陸距離も180mと短いものでした。

冗談のようなプロポーションで試験飛行を行うスティパ・カプロニ機の後期試作タイプ(吉川和篤所蔵)。
しかし胴体が中空とはいえ、機体サイズに比してエンジンが120馬力では明らかに性能不足であり、期待していた最高速度はわずか133km/h止まりでした。そこで高速化を目指して新たに双発から四発機まで計画されたものの、イタリア空軍省は資金難を理由に計画の凍結を決定、これにより世界に先駆けイタリアで生まれたユニークな実験機の開発は終わりを告げたのでした。
それでもスティパ技師が情熱を注いだ理論と実験機は、世界各国で興味を持って迎えられ、フランスやアメリカ、ソ連の航空雑誌で未来の飛行機として紹介されます。のちにこのダクテッドファンのアイデアは、その後のジェットエンジン開発の萌芽となったのですから、スティパ技師の実験機開発は決して無駄ではなかったといえるでしょう。
なお2001(平成13)年には、有志によりオーストラリアで3分の2サイズの機体が復元され、飛行に成功しています。