戦後初の国産旅客機として知られるYS-11型機は、機内も狭く、操縦も大変、トホホなエピソ―ドも多数……と少し残念な側面も持ちます。しかし、視点を変えると、このモデルは成功したともいえるかもしれません。
1962(昭和37)年に初飛行した戦後初の国産旅客機として、国内で広く知られている「YS-11型機」に実際に乗ったことがある人はいるでしょうか。
現在、日本国内で通常運航を行っているYS-11型機は、航空自衛隊が保有する飛行点検機のみで、これも2020年度で退役するそうです。もしかすると、飛んでいる姿を見られる最後の機会かもしれません。いまや一般人が旅客として搭乗することは困難ですが、国内の博物館や公園には、中に入れる機体も展示されています。
佐賀空港近くの公園に展示されているYS-11型機(2020年10月、乗りものニュース編集部撮影)。
YS-11型機の機内は率直にいうと「本当に狭い」と感じる人が多いのではないでしょうか。胴体の幅は「ジャンボジェット」ことボーイング747型機の約3分の1。そして客室の天井は低く頭がぶつかりそうで、スーツケースは手荷物収納棚(ハットラックと言うとか、言わないとか)にとても載せることができません。また客室窓からの景色も、プロペラが邪魔をしてしまい、どの席に座っても景色を楽しめるとは言い難いものです。また、乗降ドアも低いため、乗り降りの際に頭上に注意をする必要があります。
パイロットから見ても「手間がかかる子」YS-11 なぜ?また、YS-11型機は、操縦系統には油圧や電気などを使わず、操縦席から動翼までワイヤーで直結です。つまり翼を人力で動かす必要があるため、パイロットからは「操舵が重い」と声が聞こえたことも。
そして製造機数も、YS-11型機は182機。一方「ジャンボ」は1500機以上なので、ヒット機ではないということは確かでしょう。
ここまで話すと、YS-11型機が「まるきり残念な飛行機」のようですが、見方を変えれば必ずしもそうではありません。
たしかにYS-11型機は、「よく売れる」、「スペックの高い」といった、いわゆる商業的な成功作とは言い難いものの、それと異なる意味で成功した旅客機ともいえます。
というのも、かつて「零戦」を産み出した戦前の日本航空工業界ですが、戦後は、航空機設計から離れていました。YS-11型機の大きな成果は、その状況から実際に旅客機を製造し、世界に通用する航空機を日本で開発できると証明したことと言えるでしょう。事故の発生歴は無いことはないのですが、機体の根本的な欠陥による墜落事故ではなく、先述の「ブランク」があったにもかかわらず、安全性が高かったこともポイントです。丈夫に作りすぎて、かえって重くなってしまったなんてエピソードも聞かれたくらいです。
実はたくさんあったYS-11型機がもたらした「成果」YS-11型機の開発までを振り返ると、終戦による活動停止から復活後、日本の民間航空界では、主に近隣国の戦争に伴うアメリカ軍の航空機の修理や、アメリカ産の使用実績から配慮がいきわたった使い勝手の良い中古機の運航を行っていました。つまりこの時期の日本は、航空機開発の点から見ると「玄人」から離れてしまったとも言えますが、YS-11型機の開発が転機となったわけです。
そして日本の民間航空会社にとって、YS-11型機は、よちよち歩きの草創期から、ジェット機が国内を飛び回る段階に成長していく過程で、素晴らしい教材となったこともポイントです。

航空自衛隊のYS-11型機(画像:写真AC)。
ハッキリ言ってしまうと、YS-11型機の製造や運航に関わった様々な人たちと話をする中で、私は彼らからこのモデルの悪口を聞いたことがありません。もちろん、先述したような「ちょっと残念」ともいえるエピソードを聞いたこともありますが、話す人の顔はみな柔和で、プライドに満ちている印象があります。
特に1964(昭和39)年の東京オリンピックに先立ってYS-11型機が日本国内の聖火輸送を担当し、無事に成功したことは、当時の航空業界にとって「上昇気流」になったエポックな出来事なのではないかと思います。
ちなみに今、「スペースジェット」がその入口で岐路に立たされています。飛行中の独特のターボプロップ・サウンドのYS-11型機にまた乗りたいですが、国産ジェット旅客機にも是非とも乗りたいです。