アメリカ軍のB-29爆撃機は「スーパーフォートレス(超空の要塞)」の名のとおり、旧日本軍の戦闘機をものともしない性能を発揮しました。時は移り朝鮮戦争、このレシプロ爆撃機をジェット戦闘機が迎え撃ちます。

MiG-15戦闘機の登場です。

日本を焼き払ったB-29の次なる戦場は…

「超空の要塞」B-29は、日本人にとっては因縁深い爆撃機です。旧日本軍の戦闘機は、この要塞を迎え撃つには明らかに性能不足で、敗戦まで有効な対抗策を打ち出すことができませんでした。

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B-29「スーパーフォートレス」爆撃機(画像:アメリカ空軍)。

 1950(昭和25)年6月25日、朝鮮戦争が勃発します。ソ連(当時)の全面的な支援を受けた北朝鮮軍が韓国に侵攻し、アメリカが主導する国連軍が対抗します。アメリカは朝鮮の空にもB-29を投入しますが、当時は日本敗戦から5年が経過し、航空機技術はどんどん進歩を遂げジェット機時代を迎えつつあったころです。北朝鮮へ援軍として送り込まれた中国義勇軍には、ソ連から供与された最新鋭のジェット戦闘機MiG-15が配備されていました。はたしてソ連製ジェット戦闘機は、日本製レシプロ戦闘機がかなわなかった「超空の要塞」を返り討ちにできたのでしょうか。

 B-29が初飛行したのは1942(昭和17)年9月21日のことで、MiG-15の初飛行は1947(昭和22)年12月30日です。戦中レシプロ爆撃機VS戦後ジェット戦闘機は、字面だけ見ればジェット戦闘機が圧勝しそうですが、実際はそんなに簡単な話ではありませんでした。

B-29と朝鮮戦争の空 迎え撃つは戦後ジェット戦闘機MiG-15 その勝負の行方は…?

北朝鮮の工場を爆撃するB-29(画像:アメリカ空軍)。

 朝鮮戦争ではB-29を活用できる場が限られていました。北朝鮮はソ連や中国からの全面的な支援物資で戦争を行っており、日本のような大都市や工業地帯、交通結節点など、いわゆる戦略目標がほとんどなかったからです。

 B-29はかつての敵地、日本の横田基地(東京都福生市)から出撃し、おもに北朝鮮軍部隊や兵站を爆撃したのですが、戦略爆撃というより地上作戦支援攻撃といったほうがよく、対日爆撃作戦と勝手は違っていました。当初は朝鮮の空にも敵は無く、悠々と爆撃任務を実施しています。

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1952年10月、B-29の爆撃を受ける北朝鮮の清川江に架かる橋梁。6本かけられているがほとんど破壊されている様子(画像:アメリカ空軍)。

 1950(昭和25)年10月11日、ソ連の最高指導者スターリンは当時、最新のジェット戦闘機だったMiG-15を、北朝鮮を支援する中国義勇軍へ供与することに同意します。中朝国境の鴨緑江周辺空域の防空を任務とするソ連空軍第64戦闘航空団が編制され、中国の洛陽に派遣されます。国連軍パイロットは後にこの空域のことを「ミグ回廊」と呼ぶようになります。

「ミグ回廊」とB-29

 そのころの北朝鮮軍はというと、そもそもジェット戦闘機を操縦して実戦参加できるようなパイロットはほとんど居らず、MiG-15を操縦していたのは公然非公式参戦のソ連軍人と、義勇軍と称した中国軍人でした。米ソの直接対決を避けるため(そもそもソ連は国連の常任理事国)、公式にはソ連は参戦していませんでしたので、第64戦闘航空団の隊員は中国軍の軍服を着用し形ばかり中国軍を偽装しましたが、ソ連軍の関与はいわゆる公然の秘密でした。

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1951年にB-29から撮影された、迎撃に上がって来た3機のMiG-15(画像:アメリカ空軍)。

 1950年11月1日、B-29は「ミグ回廊」で初めてMiG-15と相まみえます。このとき撃墜されたB-29はありませんでしたが、日本軍戦闘機とは全く違う相手にアメリカ軍は危機感を持ち、F-84やF-86のジェット戦闘機が護衛に付けられるようになります。

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国立アメリカ空軍博物館の朝鮮戦争コーナーで並んで展示されるF-86A(左)とMiG-15(画像:アメリカ空軍)。

 この危機感が現実となる時が来ます。1951(昭和26)年4月12日、39機のB-29が、F-86を含む約100機の戦闘機の援護を受けて鴨緑江に架かる橋梁を爆撃しようとしていました。この橋梁は日本が植民地時代に架けた頑丈なもので、中国から北朝鮮へ支援部隊や軍需品を送る重要な補給線となっていました。これを44機のMiG-15が迎撃します。

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1951年10月27日にMiG-15の迎撃を受け、主翼フラップに機関砲弾が命中するもそのまま生還したB-29。この日B-29も2機のMiG-15を撃墜したという(画像:アメリカ空軍)。

 このときB-29は、爆撃精度を高めるため低高度域を飛んでおり、そしてこれが仇となりました。10分超の空中戦で、アメリカ軍は2機のB-29が撃墜され、8機が被害を受け、戦闘機を合わせると27機が撃墜されるという損害を出します。ソ連のパイロットは、爆撃機12機と戦闘機1機を撃墜し損失は無しと報告しました。

 この日は「ブラックサースデー(暗黒の木曜日)」と呼ばれることになります。以降MiG-15の脅威が本格的に認識され、B-29は低高度爆撃を避け、高高度爆撃や夜間爆撃へシフトしていきました。

B-29とMiG-15 実際の対戦結果は…?

 朝鮮戦争において、B-29はのべ2万1300機が出撃し、約16万7000tの爆弾を投下、MiG-15などの戦闘機に撃墜されたのは16機でした。逆にB-29は防御火器で17機のMiG-15を撃墜、11機を撃破しています。1950(昭和25)年12月6日、ソ連軍パイロットN・セリコフ中尉が操縦するMiG-15が撃墜されたとソ連軍が記録しており、これがB-29の初戦果だったようです。この戦争でのB-29の戦闘損失合計数は34機で、損失率は0.1%以下でした。

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休戦後に北朝鮮のパイロット盧今錫(ノ・クムソク)がMiG-15で韓国の金浦空港に亡命した直後の写真。トラック荷台からの無断撮影(画像:アメリカ空軍)。

 太平洋戦争におけるB-29の、日本への延べ出撃機数は3万3400機、投弾量14万7576t、戦闘損失は494機で損失率1.45%となっています。MiG-15は日本軍戦闘機より性能こそはるかに優れていたものの、B-29迎撃における成果は極めて限定的だったようです。ちまたでいわれるように、ジェット戦闘機がにっくきB-29をバタバタと撃ち落とした、というわけではなかったのです。

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沖縄に運ばれてアメリカ空軍でテスト飛行に離陸するMiG-15。
後方には随伴するF-86も離陸しようとしている(画像:アメリカ空軍)。

 B-29は戦略爆撃任務だけでなく、様々な試験や実験におけるプラットフォームとして1960(昭和35)年まで使われて、アメリカ航空戦略に貢献しました。一方MiG-15も、2019年に北朝鮮の元山空港の葛麻飛行場に生き残っていることが確認され「お達者ぶり」を示しています(飛行可能か否かは不明)。

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