近年、2つのバス車体がつながっている「連節バス」が主要都市で増えていますが、1950年前後には似て非なるものとして、全国で「トレーラーバス」というものが走っていました。一体どのようなものだったのでしょう。

心臓部には旧日本陸軍の装甲車用エンジンを流用

 太平洋戦争が1945(昭和20)年に終わってから3年。まだ空襲の爪あとが残る街中にも陽気な流行歌『東京ブギウギ』が流れ、人々が復興に動き出した1948(昭和23)年頃の日本。各地の街中では、通勤客をぎっしり詰め込んだトレーラー式の巨大なバスが轟音を響かせて走っていました。

 それは、日野産業(現・日野自動車)が製造した「トレーラーバス」です。全長14m、出力115hp、100人乗り。鉄道車両にも見える客車(トレーラー)部分を、ボンネットトラック形状のトラクターヘッドが引っ張る超ロングバス。

昭和20年代のごく短期間のみながら、戦後復興を担う通勤通学客の大量輸送手段として全国で奮闘しましたが、なぜ長続きしなかったのでしょうか。

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東急バス所属の日野T11型トレーラーバス(画像:東急)。

 日本は太平洋戦争で国土が荒廃しましたが、交通機関も例外ではありませんでした。鉄道もバスも多くが破壊され、生き残った車両も酷使や整備不良でボロボロ。占領軍の物資統制が厳しいため新造どころか修理もままならず、資材や労働力の輸送力をどう確保するかが喫緊の課題でした。

 この問題に対し、日野産業はアメリカ軍車両にヒントを得ます。

自社の敷地内を我が物顔に走る大きなトレーラートラックを見た大久保正二社長(当時)は、同じようなものを作れば日本の物流は復活すると考え、工場に残されていた旧日本軍用の装甲車用ディーゼルエンジンを流用したトレーラートラックを1946(昭和21)年8月に開発したのです。

 これを応用する形で1947(昭和22)年の秋頃に生産を始めたのがトレーラーバスです。エンジンは旧日本陸軍の牽引車に使用された「統制型」水冷6気筒ディーゼルエンジンとその改良型を採用。客室側のトレーラーは、一式戦闘機「隼」などの戦闘機メーカーとして知られた中島飛行機を前身とする富士産業(現・SUBARU)などが製造しました。

運転席と客室が分離していたが故の悲劇

 トレーラーバスは、当時の一般的なバスと比べて輸送力が約3倍もあったことから重宝され、国鉄バス以外にも、東京都や大阪、仙台、京都など主要都市の市交通局、さらには東急や小田急、京王、京浜急行、京阪、近鉄、西鉄などの鉄道系バス事業者まで軒並み採用されます。

 こうして1948(昭和23)年頃には、日本全国でその姿を見られるまでになりました。

一例を示すと、東京都交通局では「荻窪~東京駅」、東急は「雪ヶ谷~東京駅」「池上駅~東京駅」などで使用されており、各社とも混雑の激しい幹線に投入したことがうかがえます。

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1950年代初頭、銀座を走る東急バスの日野トレーラーバス。方向幕に「東京駅 雪ヶ谷」と見える(画像:東急)。

 当時の話を紐解くと、トレーラーバスは巨体の割に小回りが利き(回転半径が小さい)、フルエアブレーキのおかげで案外扱いやすかったという声が残されています。また巻き込み事故を防ぐため左ハンドルとする配慮もなされていたとのことです。

 こうして混乱期の救世主となったトレーラーバスですが、いわゆるトレーラー部分(客車)とトラクターヘッド部分(牽引車)が別体のため、運転は一般的なバスやトラックとは異なり特殊で、単体型バスの大型化が進むと次第に持て余されるようになりました。

 さらに1950(昭和25)年、横須賀で起きたトレーラーバスの火災事故も暗い陰を落とします。これはトレーラーバスの客車内で火災事故が発生したものの、それに牽引車内の運転士が気付かず、文字通り火の車状態になっても、しばらく街中を走り続けてしまったのです。この事故によってトレーラーバスは安全性に疑問符がついたものの、それでも急増し続ける乗客を運ぶために必要とされ、1956(昭和31)年頃まで運用されていたといいます。

 誕生から10年ほどで姿を消した日本のトレーラーバス。活動した期間が短かったため、記録もあまり残されていませんが、その姿は確実に日本の戦後復興のシンボルといえるものだったようです。