戦時中の日本軍機はエンジンの先端が平らな空冷エンジンを採用した機体が多く見られます。欧州機のように先端の尖った液冷エンジンは技術的問題もあり少数派だったのです。

そして陸軍で唯一、液冷機を開発していたのが川崎航空機でした。

戦前に「カワサキ」といえば液冷エンジンだった?

 第2次世界大戦で運用された戦闘機は、ごく一部を除いてほとんどが、燃料の燃焼によりピストンを動かし運動エネルギーを生み出すレシプロ機です。この、戦闘機のレシプロエンジンにはさらに、空気で冷却する「空冷」と冷却液で行う「液冷」エンジンがありました。この液冷エンジンの開発において当時、日本で需要な役割を果たしていた会社が川崎航空機です。

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三式戦闘機「飛燕」(画像:アメリカ海軍)。

 川崎が液冷エンジン開発に大きく関わるきっかけとなったのが、1927(昭和2)年に新型戦闘機の設計、開発のために、ドイツ人技師のリヒャルト・フォークトを招へいしたことです。

このとき開発された「九二式戦闘機」には、ドイツのBMWで開発された液冷エンジン「BMW VI」をライセンス生産されたものが取り付けられていました。そして、当時フォークト技師の補佐を担当したのが、土井武夫技師でした。後に三式戦闘機「飛燕」や、戦後の「YS-11」の開発に関わることになる技師です。

 1930年代から戦中の期間、国内外では多種多様な戦闘機が開発されましたが、戦闘機を開発した第2次世界大戦の主要参戦国において、日本は陸軍、海軍ともに空冷エンジン偏重といっていい状態でした。ほかにアメリカ海軍も整備面などを考慮し、空冷エンジンの機体が多かったのですが、同陸軍は液冷エンジンの戦闘機が多く配備されていました。欧州はイタリアを除く各国が液冷重視でした。

液冷エンジンは機体を細身に設計でき、スピードも高高度上昇性能もよいとされていたためです。

 日本陸海軍が空冷偏重になったのは、当時の技術的問題に理由がありました。液冷エンジンは冷却器(ラジエーター)を装備する関係上、エンジンの設計が複雑化する上、空冷よりも精密な部品が必要です。当時の日本の未熟な工業技術では、第2次世界大戦時の精密なベアリングやクランク軸が必要な液冷エンジンの開発はかなり困難でした。

陸軍機への液冷エンジン供給にこだわるも技術的な限界が…

 当時、陸海軍の軍用機を多く開発していた三菱と中島飛行機は、迅速な兵器開発のために、半ば液冷エンジンの開発を放棄し、空冷エンジンを使用していました。その2社とは違い、川崎は陸軍とのみ関わりが深かったこともあり、液冷エンジンの開発という独自路線で2社との違いをつけていました。

「九二式戦闘機」開発後も、川崎は液冷エンジンの国産化を追求し、「BMW VI」を改造した「ハ9-II甲」というエンジンを搭載した「九五式戦闘機」を開発、陸軍で採用されました。しかし1933(昭和8)年、ソ連戦闘機「I-16」の登場により、引込式主脚を備えた低翼単葉機の時代が到来すると、急速に旧式化が進んでしまいます。

 その後、それまでとは比較にならないほどの速度で液冷エンジンが高出力化していき、開発はさらに困難となります。川崎は「ハ9-II甲」を改造したエンジン「ハ9-II乙」で挑みますが、1938(昭和13)年に採用された「九八式軽爆撃機」で搭載されたのを最後に、陸軍は新型の液冷エンジン開発が技術的に困難だと見切りをつけ、その後は空冷エンジンでの航空機開発を川崎にも指示してきます。

川崎航空機はなぜ液冷エンジン? 旧陸軍戦闘機「飛燕」などに見る「カワサキ」のDNA

Bf(Me)109戦闘機(画像:Bundesarchiv、Bild 101I-674-7774-27/Grosse/CC-BY-SA 3.0、CC BY-SA 3.0 DE〈https://bit.ly/36NXS6L〉、via Wikimedia Commons)。

 しかし、同時期にドイツ空軍のメッサーシュミット「Bf109」に搭載されている、ダイムラー・ベンツ製のエンジン「DB 601」がかなりの高性能機であるという情報が入ると、陸軍はこのエンジンのライセンス生産権獲得を狙うようなり、指示を受けた川崎が1939(昭和16)年1月にこの権利を獲得します。

ちなみに川崎が権利を獲得する少し前、海軍機の開発を担当していた川西航空機も同エンジンのライセンス権を得ており、同じ国なのになぜ2社がそれぞれ金を払う必要があるのか、と、ドイツ政府を困惑させたという逸話もあります。

DB 601を国産化したエンジンで新型戦闘機「飛燕」を開発!

 この、「DB 601」を国産化したエンジン「ハ40」を搭載したのが三式戦闘機「飛燕」でした。開発当時は、優秀な液冷エンジンのおかげで高度的な優位を占めることができ、一撃離脱に持ち込めば空戦の主導権を握れるという評価でした。また、12.7mm機関砲4門搭載というそれまでの陸軍機にない火力も注目点でした(後期は20mm機関砲2門と12.7mm機関砲2門)。

川崎航空機はなぜ液冷エンジン? 旧陸軍戦闘機「飛燕」などに見る「カワサキ」のDNA

知覧特攻平和会館(鹿児島県南九州市)所蔵の川崎航空機 ハ40 エンジン(画像:Goshimini、CC BY-SA 4.0〈https://bit.ly/38RVBKB〉、via Wikimedia Commons)。

 しかし、1943(昭和18)年に太平洋の島々へ配備されると、デリケートなエンジンのため整備面での問題が頻発し、稼働率はかなり低かったといわれています。

一方、本土での運用では整備においてそれほど問題がなく、高高度で侵入してくるB-29爆撃機相手に、上昇力の高い液冷エンジン搭載機ということで、防空用戦闘機として重宝されました。ただし、機械油の劣化や、戦時中ということで「DB 601」が採用していたスウェーデン鋼を調達できなかった影響などで、カタログ通りの高性能を発揮できた機体は少ないと言われています。

 2020年現在もオートバイなどの独自色の強さで話のタネにされる川崎ですが、航空機を生産していたこの頃から、液冷エンジンにこだわるなど独自路線だったことがうかがえます。