いまも昔も飛行機は高価な乗りものですが、これを使い捨てにするというちょっと考えられないことを、WW2期の旧日本軍と、そしてイギリス海軍がしていました。戦勝国のはずのイギリスですが、そうせざるを得ない事情がありました。
軍用機はとても高価な乗りものです。特に、空中戦を行うために高い飛行性能を与えた「戦闘機」や、たくさんの爆弾などを搭載する「爆撃機」などになると、現代機なら100億円単位、大昔のプロペラ機でも現在の価値で数億円はしますから、普通は何年も使い続けることを前提としています。
一方で第2次世界大戦規模のような大戦争ともなると、もはや平時の常識が通用しなくなり、戦闘機を使い捨ててでも飛ばすという、ちょっと考えられないような経済感覚が正当化されてしまうことがあります。なかでも発艦は可能だが回収できない「(航空機)使い捨て空母」を建造した点において、旧日本海軍とイギリス海軍は特筆すべき国および軍隊であるといえるでしょう。
船首にカタパルトを設けた「カタパルト射出商船」と、それにセットされたホーカー「シーハリケーン」戦闘機(画像:帝国戦争博物館/IWM)。
先に艦上機の使い捨てを始めたのはイギリス海軍であり、まず商船や水上機母艦などを改造した5隻の「戦闘機カタパルト船(FCS)」が開発、テストされ、のち「カタパルト装備商船(catapult armed merchant ship、CAMシップ)」という、既存の貨物船に戦闘機を射出するカタパルトを装着しただけのとても空母とは呼べそうにない航空機搭載艦を35隻、建造しました。
FCS、CAMシップともに飛行甲板はありませんから、飛び立った戦闘機のパイロットは着水ないし空中で機体を捨て脱出、のちに救助を待つという、経済感覚だけではなく人権感覚的にも常識外れの船でした。
戦果が目的ではない? 使い捨ててでも戦闘機が欲しかったワケなぜこのような無茶苦茶が通ってしまったのかというと、1939(昭和14)年に始まった第2次世界大戦は当初、ドイツやイタリアなど枢軸国が優勢であり、1940(昭和15)年末の時点でイギリスを中心とする連合国は、500万トンもの輸送船を潜水艦や爆撃機の攻撃によって失っていたからです。これはイギリスにおける当時の年間商船造船能力の6倍に匹敵します。資源のほとんどを植民地から海上輸送することで賄っていたイギリスにとって、輸送船の護衛は国家の命運を左右する大問題でした。

1941年11下旬から12月上旬の間に大西洋で撮影された、イギリス輸送船団の商船。船首のカタパルトに戦闘機が見える(画像:帝国戦争博物館/IWM)。
潜水艦に対しては海軍の駆逐艦で対抗できましたが、ドイツ空軍のフォッケウルフFw200 四発大型爆撃機はイギリス本土に配備された戦闘機の航続距離外まで進出でき、無抵抗の商船を一方的に攻撃できました。そのためイギリスは今日すぐに1機でも洋上で使える戦闘機が欲しかったのです。
FCS、CAMシップは実戦でフェアリー「フルマー」ならびにホーカー「ハリケーン」「シーハリケーン」戦闘機を射出しており、撃墜戦果自体は1941(昭和16)年から1943(昭和18)年間までに9機しかありませんでしたが、爆撃を失敗させるプレッシャーさえ与えられれば戦闘機1機を捨てても差し引きプラスといえました。
FCS、CAMシップから射出された戦闘機は、可能なら陸上飛行場へ着陸できましたが、8機が着水し2名が事故死しており、「使い捨て空母」は高い事故率をものともしない勇敢なパイロットの献身の上に成り立っていたといえます。そのため1943年以降は空母の数が揃ったことで、元々貨物船だった船は通常の輸送船としての任務に戻されました。
実はイギリスより少しマシな旧日本海軍の「爆撃機使い捨て」計画日本海軍の「使い捨て空母」計画は、1942(昭和17)年のミッドウェー海戦における空母4隻喪失という敗北からの航空戦力回復を目的とし、次の「艦隊決戦」へ備えるために実行されました。

「伊勢」の航空戦艦への改造はカタパルト射出対応化した「彗星」と水上機「瑞雲」を搭載し艦隊決戦における航空戦力を補助することを目的とした(画像:アメリカ海軍)。
航空機の台頭により価値を喪失した戦艦「伊勢」「日向」を航空機搭載艦化することで、「彗星」艦上爆撃機を22機、合計で44機を搭載し射出するという計画であり、ミッドウェーで喪失した空母はおおむね戦闘機20機+爆撃機・攻撃機40機だったので、1回だけとはいえ空母1隻ぶんと同等の攻撃力は用意できる見込みでした。
日本海軍がイギリス海軍よりいくらか「マシ」であったのは、艦隊決戦時に空母(「隼鷹」「龍鳳」)と併用することで、発艦した「彗星」が少なくとも着艦はできる見込みだったことです。仮に全機が帰還できたとしても、僚艦に着艦した後に順次、機体だけ捨ててしまえば、パイロットは安全に戻ることが可能であるはずでした。また「彗星」より100km/hも遅かったものの、回収・再利用も可能な水上機「瑞雲」も計画に加わりました。
1944(昭和19)年6月に「彗星」「瑞雲」両機の射出試験に成功、1944年8月末にはいよいよ実戦への投入が可能となりましたが、10月に発生した「台湾沖航空戦」においてすべての「彗星」「瑞雲」が基地航空隊へ引き抜かれてしまい、以降「伊勢」と「日向」に艦上機が戻ることはなく、結局、終戦まで一度も実戦で使用されることはありませんでした。
イギリスは「商船護衛」のため、日本は「艦隊決戦」のためという用途の違いはあれど、厳しい戦況における空母不足から「使い捨て空母」を計画し実用化したという、切羽詰まった島国の事情は似ていたといえるかもしれません。