JALのボーイング777退役で、元「JAS」の機体も姿を消しました。かつてJALとANAに次いで日本の三大航空会社とされた「TDA」、後の「JAS」は、ユニークな側面をもつことで知られました、どう成立、成長し、なぜJALへ統合されたのでしょうか。

東急主導で2つの航空会社を合体

「ジャンボ・ジェット」ことボーイング747が日本の航空会社において押しも押されぬ主力機であった1980年代から2000年ごろまで、全国的に名高い国内航空会社は3社ありました。JAL‘(日本航空)、ANA(全日空)、そしてTDA(東亜国内航空)、のちのJAS(日本エアシステム)です。

 TDA時代には国内で初めてエアバスの旅客機「A300」を導入し、JASに社名変更後は、機内サービスなどの面で独自性のあふれる航空会社でした。なぜ生まれ、なぜ消えていったのか、戦後の成り立ちから振り返ってみましょう。

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JASのエアバスA300(画像:JAS)。

 敗戦後に規制されていた国内航空会社の活動が1950(昭和25)年に解禁されると、日本国内にも地方ごとに航空会社が設立され、国内の航空会社はまさに、群雄割拠の状態になりました。

 1950年代に入ると、日ヘリ航空と極東航空が合併しANAが、日東航空、富士航空、北日本航空が合併し、ローカル線主体の日本国内航空(JDA)が誕生。そのほか、広島空港を拠点の地域航空会社の東亜航空(TOA)など、ある程度まとまりが出てきました。

 TDAは、1971(昭和46)年に日本国内航空と東亜航空が合併してできた航空会社です。その後ろ盾となったのが、当時の東急グループ。航空業界へ参入を目指した同グループが、まず日本国内航空を傘下に置き、東亜航空との合併を主導したのです。なお当初、運輸省では日本航空と日本国内航空、全日空と東亜航空という組み合わせで合併を図っていましたが、これは頓挫しています。

 この当時、JAL、ANAと比べると、2社とも、まだプロペラ旅客機が中心の機材編成だったものの、日本国内航空は合併前の1966(昭和41)年、3発ジェット旅客機であるボーイング727を導入しており、航空機のジェット化への過渡期でもありました。TDA初のジェット化路線は創業翌年の東京~大分線だったと記録されています。

TDAがぐんぐん成長していくまで

 こうして設立されたTDAですが、国策航空会社であったJAL、国内線の充実により成長期にあったANA(全日空)とは、その規模や知名度で大きく引き離されており、当初はやはり2大巨頭に対する「その他の航空会社」という位置づけにあったといえるでしょう。しかし、転機は早速訪れます。

 1972(昭和47)年に、国内航空会社3社の指針を決めることとなる政策「45・47体制」で、TDAは将来的に幹線へ参入するために準備を進めつつ、当面のあいだはローカル線を担当する、とされました。なおJALは国際線と国内幹線、ANAは国内幹線とローカル線を担当するといった位置づけでした。つまり、このときJAL、ANAには及ばないながらも、「国内第3の航空会社」へのスタートを切ったといえます。

さよなら最後の「元JAS」機 消えた三大航空会社の一翼 どう成長しJALへ統合されたのか

TDAのダグラスDC-9シリーズ(画像:JAL)。

 TDAは、「45・47体制」のなかでも当時トレンドとなっていたジェット化の動きを強めていきます。1974(昭和49)年には、ダグラスDC-9を導入。これが、長年に続く主力タイプ「DC-9/MD-80系」の始まりとなります。また、ローカル線を運航しながら、1975(昭和50)年には便数こそ少ないものの、ドル箱の幹線である東京~札幌・福岡線に参入するなど、国内線のネットワークを拡充していきます。

 時代も味方し航空需要は年を追うごとに多くなっている状況で、1980(昭和55)年にはエアバスA300の運航を開始し、ダブルトラック(他社との競合路線)となっていた東京~鹿児島線などへ投入しました。

 そしてTDAがより大きな会社となる転機が、1985(昭和60)年に訪れます。

JASへの社名変更は悲願達成のため その後は?

 同年に、先述の「45・47体制」が改められ、路線免許制など課題が残るものの、航空ネットワークを構築する自由度が大きく増したのです。航空需要の予想外の伸びを受けた措置でした。

 そこからTDAは、念願の国際線就航に向け準備を進めます。TDAでは、A300の航続距離延長タイプ「A300B4」を導入、これを国際線機材としたほか、「東亜」国内」航空の社名も、国際線展開にそぐわない可能性もあることから、1988(昭和63)年にJAS(日本エアシステム)へと社名を変更し、同社初の国際線定期便、成田~ソウル線を就航させます。この路線にもエアバスA300を使用しました。

 その後JASはハワイ線の開設を目指しますが、双発機に設定されている洋上飛行制限(ETOPS)に抵触してしまうA300では、旅客便を飛ばすことができなかったため、制限のない3発機のダグラスDC-10を2機導入。こちらを中長距離路線へ投入します。念願のホノルル線は1991(平成3)年に開設されました。

さよなら最後の「元JAS」機 消えた三大航空会社の一翼 どう成長しJALへ統合されたのか

2021年3月に退役が決定したJALの「JA009D」。元JASの「レインボーセブン」(乗りものニュース編集部撮影)。

 JASの国際線進出後は、そのユニークなサービスにも磨きがかかりました。1996(平成8)年には、国内航空会社で初めて女性用化粧室を設置。1997(平成9)年には、JALやANAでも次世代主力機となっていたボーイング777-200を導入し、2クラス制(スーパーシートと普通席、など)が一般的だった国内線用仕様機で初めて3クラス制とします。また、全席機内モニターを備えるなどの取り組みも実施しました。

 国際線進出でイケイケムードに見えたJASでしたが、実は、もともと膨大な国内線ネットワークを抱えているなかで採算が取れない地方路線も多くありました。とどめを刺したのは、2001(平成13)年のアメリカ同時多発テロによる旅客数の激減で、これにより経営が立ち行かなくなってしまいます。

 そのようななか、JALから合併の話が出ます。これは、路線ネットワーク拡充を目指していたJALが、JASの豊富なネットワークに目をつけたもの、という説がもっとも広く知られている見解です。

 そういえば、JALから2021年3月に全機退役となったボーイング777-200には、元JASの「レインボーセブン」が含まれています。利用者にとって「JAS最大の功績」ともいえる国内線独自クラスの「クラスJ」はいまだに健在ですが、元JAS機に乗れなくなってしまうのは、時代の流れを感じます。

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