世界初のジェット旅客機としてデビューしたデ・ハビランドDH.106「コメット」は、相次ぐ航空事故で悲しい運命にもてあそばれた旅客機でもあります。革新的な機体であったとは言えるものの、何がまずかったのでしょうか。
「コメット」、日本語でいえば「彗星」という名づけられた航空機は、筆者(種山雅夫、元航空科学博物館展示部長 学芸員)個人的には、ちょっと可哀そうな運命にもてあそばれた機体を思い浮かべます。
なかでも、旅客機の歴史に大きな足跡を残したのが、第2次世界大戦後、世界初のジェット旅客機として華々しく運航を開始したデ・ハビランドDH.106「コメット」です。しかしこれも、一般的には悲劇のジェット旅客機として認知されてしまいました。
BOACのコメットMk.I(画像:帝国戦争博物館)。
大英帝国、つまりイギリスは、第2次世界大戦の衰勢がまだ定かでない1943(昭和18)年に、ブラバゾン委員会という戦後の民間航空における旅客機の開発計画を立ち上げます。
ここでは、たとえばターボプロップ旅客機ビッカース「バイカウント」など、のちに実用化されることになるさまざまな旅客機の原案が考えられました。このうち「タイプ4」と通称された100席クラス短距離用のジェット旅客機を、デ・ハビランド社で担当することとなります。これがのちのDH.106「コメット」でした。
デ・ハビランド社の創業者、ジェフリー・デ・ハビランド・シニア社長にとっては、この世界最初のジェット旅客機を開発することは、並々ならぬ思いがあったといえます。というのも、実は同氏はDH.106「コメット」の制作に先立って、同じく「彗星」の意味をもつメッサーシュミットMe163「コメート」を参考に開発した試験機、DH.108「スワロー」を作り出し、社長のご子息が試験飛行のパイロットを務めていました。しかし、この機はエアショーで急降下飛行中に墜落、ご子息は帰らぬ人になってしまったのです。
このようななか生み出されたDH.106「コメット」の全長は約29m、全幅は約35m、航続距離は約2400kmといったスペックです(コメット 1の場合)。
ただ、最先端を行くジェット旅客機ゆえに、数多くの技術的困難があったと想像できます。それは、「コメット」の異常なほどの事故率が物語っているのです。
コメットのもう一つの「世界初」 ただデビュー後は事故連発空気の薄い高高度を飛行する機体は、「コメット」が登場する前あたりから、例えばボーイング307、ロッキード「コンステレイション」、ダグラスDC-6などがすでに実用化されていましたが、「コメット」のようなジェット旅客機の場合は、より高い高度を飛行することになります。
コメット1は、世界初のジェット旅客機というだけではなく、当時としては先進的な技術である「与圧キャビン」を持つ旅客機として1952(昭和27)年に就航しました。ジェット旅客機の飛ぶような高高度は空気が薄いので、機内をできるだけ地上に近い、空気の濃い環境にしなければ、乗客は生命の維持が難しくなります。そこで、上空において機内の空気の濃さ、気圧を上げることが与圧です。
ただ、当然上空では機内と機外で気圧の差が生じることから、機体の構造に大きな負荷がかかります。機体が上昇と降下を繰り返し、この圧力差を多く受けることで、金属疲労が発生し、最悪のケースとしては構造の破壊が生じる――このことは「コメット」開発の時点ですでに航空界では知られており、同機の場合も設計時に疲労破壊に対する対策を練っていました。
ところが、対策は練ったものの、「コメット」は就航からわずか2年弱ののち、地中海で機体が空中分解する事故が発生します。その後一時期飛行を停止し、原因究明のうえ想定される個所の改修が実施されましたが、運航再開後にやはり地中海で2機目が空中分解してしまったのです。

JALのダグラスDC-6B。
恐れていた事態が現実となってしまったことから、当時のウィンストン・チャーチル首相は、大英帝国の威信をかけて原因を究明し、その後のジェット旅客機の開発を主導すべく、徹底的な原因調査と対策の策定を指示しました。
その結果、事故原因は、繰り返される荷重による金属疲労が原因と究明されました。「コメット」は、設計当初に想定されていた離着陸のサイクルの、わずか10分の1で破壊に至ったことが分かったのです。
相次ぐ事故の原因は何だったのか実はこの異常に早い金属疲労は、客席の窓が大きな要因だったと記録されています。「コメット」の窓は四角に近いものでした。つまり、窓の角が鋭角だったのです。「コメット」の場合、上昇、降下を繰り返すうちに、この角の部分に力が集中して負荷が生じ、これが積み重なって先述の航空事故が発生したとされました。
その後のジェット旅客機の窓が全て、丸に近いアールが取られているのも、この「コメット」の教訓を生かしたものなのです。
デ・ハビランド社でも、窓を丸くした改修タイプ「コメットIV」を1958(昭和33)年にデビューさせます。ところがジェット旅客機としては「コメット」より後進となる、アメリカ製のライバル機、ボーイング707やダグラスDC-8は、この対策を施したうえで、キャパシティや後続距離も向上させたモデルとして開発されていました。こういった経緯により、コメット1からほぼ独壇場だったジェット旅客機におけるイギリスの優位性は、1960年頃までに無くなっていきました。

「コメット」以来、丸い窓は2021年現在も基本的に引き継がれている(2021年、乗りものニュース編集部撮影)。
機体を購入するエアラインとしても客商売ですから、過去に事故歴のある機体より、より大型で乗客を多く乗せられ、かつ長距離を飛行できる機種を選びました。「コメット」の初期発注者であるBOAC(英国海外航空。現在のブリティッシュ・エアウェイズ)までもが、コメットIVからボーイング707に更新してしまったのです。
革新的な航空機は、飛行高度や飛行距離などの運用方法など様々な条件を想定して設計が進められるものです。もちろん設計者は完璧を期するのですが、実際に運用してみると、どこかに想定外の事象が発生することもあります。しかし、何か想定外の案件が発生した場合でも、いかにしてその要因を探求し、対策を実施していくかが、筆者は重要と考えます。
ただ、「コメット」がジェット旅客機のパイオニアとなった点も、疑いようのない事実です。個人的には、コメットのすらっとした鼻先が好みです。どことなく、エアバスA350を見るとどこか似ていると思うのは筆者だけでしょうか。
ちなみに、そのほかに「コメット」と呼ばれた飛行機には、ドイツ空軍で第2次世界大戦終盤に導入された、ロケットエンジンを搭載した全く新しい戦闘機Me163「コメート」や、日本海軍が発注した艦上爆撃機「彗星」などがあります。前者は革新的設計と引き換えに扱いが難しく危険性も高かったことから「恐怖の彗星」と呼ばれ、後者は水冷エンジンの扱いが当時の日本人には難しく、最終的にエンジンを違うものに変えることになりました。
※一部修正しました(5月23日9時09分)。