アメリカの艦上戦闘機として最多の生産数を誇るのがF4U「コルセア」です。本機は第2次大戦勃発前に開発され、運用終了は大戦終結から34年も経った1979年のこと。

しかし、誕生当初は艦上機なのに肝心の空母で運用できない“駄作機”でした。

設計開始は第2次大戦が始まる前

 第2次世界大戦中、アメリカ海軍は多種多様な航空機を開発・運用しましたが、空母に発着艦可能な艦上戦闘機のなかで最多の生産数を誇るのがF4U「コルセア」戦闘機です。

 F4U「コルセア」戦闘機は初飛行後、初期には不具合に悩まされ、一時は空母で運用するには不適格との烙印が押されるほどでした。しかし、様々な欠点を地道に改善していった結果、第2次世界大戦後も現役であり続け、朝鮮戦争にも参加し、一部の国ではF/A-18「ホーネット」戦闘爆撃機が初飛行(1978年11月18日)したあとの1979(昭和54)年まで現役であり続けたのです。

 なぜF4U「コルセア」はそこまでの傑作機に昇華できたのか、改めて探ってみます。

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F4U「コルセア」戦闘機の後期型であるF4U-4。第2次世界大戦末期に登場、1947年まで生産された。ちなみに愛称の「コルセア」とはイスラム系の海賊という意味(画像:アメリカ海軍)。

 そもそもF4U「コルセア」が生まれたのは、第2次世界大戦が始まる前にさかのぼります。アメリカ海軍がブリュースター社製のF2A「バッファロー」を採用した直後の1938(昭和13)年初頭、すでに同海軍は、次世代の艦上戦闘機の導入を計画しており、各社に対して新型機を競合試作させることにしました。

 検討段階では、さまざまなプランが考慮されましたが、この新型艦上戦闘機には、新たに開発された2000馬力級のプラット&ホイットニーR-2800「ダブルワスプ」空冷星型18気筒エンジンを搭載することに決めます。つまりアメリカ海軍としては、当時の感覚では「重戦闘機」に相当する機体を、次期主力艦上戦闘機にしようと考えたのです。

そして、チャンスヴォート社が提案した社内名称V-166Bが、1938(昭和13)年6月に「XF4U-1」として海軍に採用され、試作発注を受けました。

「逆ガル」翼の採用でプロペラと主脚の問題を一挙に解決

 XF4U-1は、当時の単発戦闘機としては類を見ない大馬力のエンジンを搭載したため、それに見合った大直径プロペラを備える必要がありました。しかし、尾輪式の低翼機体の場合、大直径プロペラの先端が地面と接触しないようにするためには、主脚柱を長くせざるを得ません。

 ところがあまり長くすると、今度は主脚の強度が危うくなったり(長いと折れやすい)、主翼内に収納し難くなったり(容積確保の点で難しい)するというデメリットもありました。

主翼曲げれば万事解決!「逆ガルウィング」戦闘機F4U「コルセア」なぜ傑作機になったか

F4U「コルセア」戦闘機の真正面からの写真。主翼がゆるやかな「W」型形状をしているが、これがガルウィングを逆さにした形なので、「逆ガル」と呼ばれる所以(画像:アメリカ海軍)。

 そこで、チャンスヴォート社でV-166B(XF4U-1)の設計主務者を務めていたレックス・ブレン・ベイゼルは、主脚が収納される主翼を胴体との付け根の部分で下に向けて湾曲させて問題の解決を図りました。これは、クルマのいわゆるガルウィングのドアを左右開いた状態を逆さにしたような形のため「逆ガル」翼と呼ばれます。ちなみにガルウィングとは「カモメの翼」の意味で、翼を上方に羽ばたいた様子に見立てたものです。

 こうすると、機首に大直径のプロペラがあっても、主翼の下面が胴体下面よりも下になるので、主脚柱をそのぶん短くでき、その結果、強度面でも収納容積の面でも有利になります。

 おまけに、この主脚にはダイブブレーキパネルが装着されており、急降下時や空戦時に、エアブレーキとして使用することも考慮されていました。ただ、後の実戦ではパイロットたちが、戦闘中にスピードが極端に落ちるのを嫌ったことから、あまり使用しなかったともいいます。

不具合発生で並行開発のライバル機に一歩出遅れ

 機体は、全体的にきわめて堅牢なフレーム(骨格)が用いられており、戦闘重量で7.5Gという大きな制限荷重を得ることができました。これは同時期に使用されたグラマン社製の艦上戦闘機F6F「ヘルキャット」の6.5Gよりも大きく、高速時や急降下時の急激な機動にも十分に耐えられるということを示しています。

 ところが、V-166B(XF4U-1)の開発を進めていくうち、新しいエンジンと画期的な構造に起因する、様々な改善点が生じるようになりました。

主翼曲げれば万事解決!「逆ガルウィング」戦闘機F4U「コルセア」なぜ傑作機になったか

1951年7月、朝鮮戦争においてアメリカ海軍の空母「ボクサー」から発艦するF4U-4「コルセア」戦闘機。F4Uはその逆ガル翼にちなんで「Bent-Wing Bird」とも呼ばれた(画像:アメリカ海軍)。

 まず、新しいエンジンである「ダブルワスプ」の初期不良の改善は不可欠でした。さらに、エンジン周りの不調による潤滑油漏れや前方視界の不良などといった問題も起こります。その結果、艦上戦闘機として開発されたにもかかわらず、そのような運用には不適当という烙印を押されてしまうほどでした。

 実は海軍では、V-166B(XF4U-1)の開発と並行して、グラマンF6F「ヘルキャット」の開発も進めていました。これはV-166B(XF4U-1)の開発が失敗した際のリスクヘッジ(危機回避)策としての役割があったからです。そのため、F6Fは革新性をあまり追求せず、既存技術の延長線上で設計開発されていました。

 しかも、F6FはF4Uと同じダブルワスプを搭載しているにもかかわらず、先行していたF4Uの開発でのトラブルシューティングがフィードバックされたことで、大きなエンジン・トラブルに見舞われることもなく順調に開発が進んでいました。

その結果、F6Fは主脚の強度がやや弱いだけで、空母での運用にも問題がなかったため、不具合の改善に手間取るF4Uを尻目に、先行して空母で運用されることになったのです。

不具合解消で傑作機へと昇華

 結果F4Uは、とりあえず陸上基地で運用される海軍戦闘中隊や海兵戦闘中隊に配備されました。しかし、まだパイロットが本機に慣れておらず、改修も進んでいない時期の1943(昭和18)年頃には、歴戦のパイロットが操縦桿を握る日本機との戦いで、少なくない機数が撃墜されています。

 ところが、こういった厳しい実戦での運用実績が開発サイドにフィードバックされ、さまざまな改良や改修が施されるのと並行して、パイロットたちも機体に慣れることでF4U「コルセア」は本来の実力を発揮するようになっていきました。その結果、空母での運用も可能となり、1944(昭和19)年12月から本格的に空母への搭載が開始されました。

 この頃になると、F4Uは性能を存分に発揮するようになり、日本機に対して優位に戦うことができるようになっていました。さらに、F4Uは戦闘爆撃機としても使えたことから、艦上機の搭載機数が限られる空母において、戦闘中隊だけでなく、急降下爆撃機部隊にも本機を装備させて機種の統一を図り、戦闘爆撃中隊とする案も推進されています。この点は、まさに今日のF/A-18「ホーネット」戦闘爆撃機の運用に通じる発想といえるでしょう。

主翼曲げれば万事解決!「逆ガルウィング」戦闘機F4U「コルセア」なぜ傑作機になったか

飛行可能な状態で保存されているF4U-4B「コルセア」戦闘機。世界各国で100機近くが現存しており、そのうち30機程度が飛行可能な状態で維持されている(画像:アメリカ海軍)。

 最終的にF4U「コルセア」シリーズは、第2次世界大戦後も改良型の生産が継続され、なんと最後の量産機が工場を出たのは大戦終結から8年も経った1953(昭和28)年初頭のことです。

 総生産数は1万2571機。

この数はアメリカ海軍の艦上戦闘機としては最多を誇ります。それらは、アメリカ海軍や海兵隊のみならず、アメリカの同盟国であったイギリス軍やニュージーランド軍、フランス軍などへも供与され、いくつかの戦争や紛争に参加し、高い評価を受けています。

 最終的に中米ホンジュラスでは1979(昭和54)年まで現役だったのですから、第2次世界大戦に参加した戦闘機としては異例の長生きだったといえるでしょう。

 逆ガル翼を始めとした新機軸に当初悩まされたF4Uでしたが、結果、それら新機軸があったがゆえに長生きできたともいえるようです。

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