本州と九州を結ぶ「関門トンネル」は、世界でも最初期の海底トンネルで、戦時中に完成しました。戦時中にどうしてこのような大掛かりな公共事業が続けられていたのか、実はその戦争にこそ大きな理由があったのです。

戦時中に完成した世界初(諸説あり)の海底トンネル

 関門海峡の海底下をくぐって本州と九州を結ぶ「関門(鉄道)トンネル」は、クルマや歩行者が行き来できる「関門国道トンネル」、新幹線が走っている「新関門トンネル」などと共に、関門海峡を横断する交通路として知られています。その開通は1942(昭和17)年7月1日と、関門海峡のトンネルとしては最も古く、当時の日本は第2次世界大戦に参戦し、対米英戦の只中にありました。

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関門(鉄道)トンネルは、関門海峡を横断するほかの橋やトンネルからは少し離れて位置する。なお新関門トンネルは新幹線用(国土地理院地図を加工)。

 実は「関門トンネル」は、世界で最初の本格的な海底トンネル(諸説あり)であると共に、「シールドマシン」という先頭に大きな刃のついた回転式の筒型装置で、掘削とトンネル壁面の構築が同時にできる「シールド工法」と呼ばれる工法を、長距離を掘り進むために日本で初めて本格的に導入したトンネルでありました。

 本州と九州を結ぶ連絡通路を作ろうというプランは、かなり古くから存在し、20世紀の始まりごろにはすでに計画がありました。当初は関門海峡に橋を架けようという考えでしたが、これは敵艦船からの砲撃の格好の的になってしまうという理由で却下されます。結果的にこのときの決断が、航空戦力の登場した後の時代にも活きることになります。

 1910(明治43)年1月の時点で、関門海峡にトンネルを通す計画がスタートしたと新聞などで報道されていますが、当時の鉄道院、内務省間の交渉が手間取り、正式に着手したのは1919(大正8)年になってからのようです。そこから地質調査、海底調査などが行われ、1921(大正10)年7月には工事がかなり困難で、莫大な予算がかかることが判明し、結局、翌年から計画の立て直しが行われました。

 そして、各省庁の思惑もあり工事計画は難航。1930年代にはトンネルを掘るよりもこのまま船でいいのでは、という案もでましたが、最終的には当時の鉄道省を陸軍が後押しする形で1936(昭和11)年7月には現場機関として鉄道省下関改良事務所が発足し、同年9月19日に小森江で起工式が行われ、空前の大工事がスタートしました。

軍事的緊張が高まるなか突貫工事で開通!

 なぜ陸軍がこの計画に乗り気だったのでしょうか。それは、このトンネルが開通し実績ができれば、国内の流通の安定だけではなく、当時、計画としてあった九州、壱岐、対馬、朝鮮半島を海底トンネルでつなげ、満州から九州までつながる鉄道網を構築しようという「大東亜縦貫鉄道構想」も前進するのでは、という思惑があってのものでした。空前の規模の計画ですが、完成すれば、陸軍は大陸向けの軍需品輸送の多くを鉄道で行えるということで、海上輸送よりも安定的な補給網を確保できることになります。

 関門トンネルの起工直後に、大陸では中華民国との軍事衝突が始まりましたが、地質などを調べるために本坑に先行して掘られていた試掘坑道は、1939(昭和14)年には貫通しました。その後も、戦時体制下であっても工事は止まらず、出水事故などを克服しながら、1941(昭和16)年7月10日には下り線の本坑が貫通しました。この本坑の工事には、これまで国内で満足にいく結果の得られなかった「シールド工法」を成功させるため、関係悪化がいちじるしいアメリカにまで視察へ行ったそうです。

旧陸軍も後押し 関門トンネルはなぜ戦時下に完成を急がれたのか 背景に壮大な計画も

関門(鉄道)トンネル用シールドマシン(画像:鉄道省 土木建築工事画報1939年1月号「関門海峡連絡隧道工事図譜」/Public domain、via Wikimedia Commons)。

 下り線には1942(昭和17)年6月11日に最初の試運転列車が通り、7月1日に貨物用として開通し、11月15日には旅客用にも開通しました。上り線のトンネル開通は1944(昭和19)年8月8日で、同年9月9日から複線での運用が開始されたようです。なお、上り線トンネルの着工は1940(昭和15)年ということで、戦時中の物資の安全な流通の確保という目標もあり、かなりの突貫工事で進められていたことがうかがえます。

戦時中にアメリカ軍は関門トンネル破壊を検討していた!?

 上下線のトンネルが開通した1944(昭和19)年7月は、太平洋戦争における日本の敗色がすでに濃厚になりだしていた時期で、サイパン島を喪失し、本土空襲の危機感も高まっていました。

 本土空襲が始まると同時に、日本列島の島々を行き来している連絡船も狙われるようになり、さらにアメリカ軍の「飢餓作戦」とよばれる機雷による海上封鎖作戦で、日本の海上輸送力は極端に低下します。

そこで重要な地位を得たのが完成したばかりの関門トンネルで、本州と九州間の石炭や物資、さらに兵員や兵器の輸送を比較的、安全に行うことができました。

旧陸軍も後押し 関門トンネルはなぜ戦時下に完成を急がれたのか 背景に壮大な計画も

関門(鉄道)トンネル下り線トンネルの掘削現場(画像:鉄道省 土木建築工事画報1939年1月号「関門海峡連絡隧道工事図譜」/Public domain、via Wikimedia Commons)。

 連絡船の機能が麻痺するなか、物資を運び続ける関門トンネルをアメリカの陸軍航空軍も日本における最も重要な攻撃目標と位置付け、B-24爆撃機に搭載した遅延信管をつけた爆弾での爆撃も計画されていました。また、予定していた南九州上陸作戦を支援するために、日本船に偽装した救助船に爆薬を積んで関門トンネル付近に沈め、リモコンで爆破するという作戦計画もあったそうです。

 幸い、爆撃や爆破作戦の準備をしている内に戦争は終結となり、関門トンネルは壊されることなく、現在も運用されています。戦時中は本州と九州をつなぐ生命線となり、戦後も日本の交通網における要所のひとつを担った「関門トンネル」で得たトンネル掘削のノウハウは、戦後日本の土木技術向上に大きな力となりました。

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