イタリア海軍が第2次大戦で用いた2人乗りの海中兵器S.L.C.。小型ながら多くの敵艦を沈めた“隠密兵器”ですが、その始祖といえるものが、第1次大戦中にありました。
現代のアメリカ海軍特殊部隊NAVY SEALsなどでは、密かに敵の港湾に侵入して施設や艦船に近付ける水中バイクが運用されています。小型で音も静かな隠密兵器といえるこのような乗りものは、第2次世界大戦時にイタリア海軍が開発・発展させた2人乗りの低速走行魚雷「S.L.C.」が原型といえるでしょう。
S.L.C.は地中海の入口ともいえるイギリス領ジブラルタルの港で多くの輸送船を沈め、エジプトのアレクサンドリア軍港では2隻のイギリス戦艦を大破させました。少人数で多大な戦果を挙げた、いわば「特殊作戦用水中兵器」といえるS.L.C.の起源は、第1次世界大戦までさかのぼります。
第1次世界大戦末期、イタリア海軍の特殊兵器「ミニャッタ」で沈められたオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の戦艦「フィリブス・ウニティス」(画像:アメリカ海軍)。
第1次世界大戦も終盤に入った1917(大正6)年、イタリア海軍は当時、新兵器であった魚雷艇を効果的に使用し、敵であるオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍の戦艦「スツェント・イストファン」を撃沈することに成功します。しかし、この影響でオーストリア・ハンガリー二重帝国はアドリア海北端の要衝ポーラ軍港の警備を強化し、以後、魚雷艇を用いた攻撃は困難となりました。
そこでイタリア海軍は、そのような厳重な警備をかいくぐり、隠密裏にポーラ軍港に侵入できる、魚雷艇に代わる新兵器を開発します。
当初開発したのは魚雷艇を改造した「ジャンプ艇」と呼ばれた小型の強襲艇でした。同艇の船体両側には滑車で取り付けられた突起付きチェーンがあり、これを戦車の履帯(いわゆるキャタピラ)のごとく回転させることで、軍港外側に張られた魚雷防御ネットなどの浮遊障害物を乗り超え、港内に侵入しようというものでした。
イタリア海軍は戦局を一変させる新兵器として期待したものの、1918(大正7)年4月から6回に渡り計画されたポーラ軍港襲撃作戦は、回転チェーンから大きな騒音が発生したことですべて失敗に終わります。
ジャンプ艇によるポーラ軍港襲撃が行き詰った頃、ジェノヴァ海軍工廠の兵器実験部に勤務していたラッファエレ・ロセッティ技術将校は、兵士が潜水服を着て乗り込む小型海中兵器の開発計画を暖めていました。
いわば「オートバイ型魚雷」といえるもので、これに乗って隠密裏に敵の防御網を突破した潜水服姿の兵士が、ひそかに敵艦の底面に時限爆弾をセットすることで敵艦を撃沈しようというものです。このアイデアはすでに1915(大正4)年には着想されていたものの、当初は海軍当局には相手にされていませんでした。

第1次世界大戦後、イタリア国内にあるラ・スペツィアの海軍技術博物館に展示された人間魚雷「ミニャッタ」の試作1号機(吉川和篤所蔵)。
しかし彼はあきらめず独自に研究を重ね、翌1916(大正5)年には敵であるオーストリア・ハンガリー二重帝国の大型魚雷2発を手に入れ、密かに開発を続けます。このような行いに対し、イタリア海軍の首脳部は「ロセッティは“海の騎兵”を創作している」と冷笑の種にするほどでした。
それでも開発を続けた結果、1918(大正7)年に試作機は完成します。魚雷を改造した小型海中兵器は2人乗りで、圧縮空気によって速度5.5km/h、航続距離16kmという性能を発揮。とはいえ、時限式起爆装置はロセッティの私物の古時計を改造した手作りの「一品モノ」でした。
試作機は同年10月下旬、イタリア海軍の将官の前で前述のジャンプ艇とともに最終実用試験を受けるまでに至ります。試験では見事、水中において魚雷防御ネットの切れ目をすり抜けることに成功し、2人乗り魚雷は実用兵器としてジャンプ艇よりも優れていることを証明したのです。しかし海軍は、一技術士官が個人的に製作した試作機に敗れるという事実をなかなか認めませんでした。
「ミニャッタ(ひる)」と名付けられた新兵器は、175kgの炸薬が入った弾頭2個をそれぞれ本体から切り離して、敵艦の底に人力で設置、最長6時間セット可能な時限式信管で爆破させるというもので、その間に潜水服を着た乗員は残った本体を操縦して母船に帰還するというものでした。
その実行には大きな困難が予想されたため、イタリア海軍は兵器としての有用性に難色を示したものの、開発者であるラッファエレ・ロセッティ技術将校は、ペアであるラッファエレ・パオルッチ軍医中尉と4か月におよぶ激しい潜水訓練を行い、実用に耐えうることをイタリア海軍に認めさせます。
その結果、2人は作戦計画の承認まで勝ち取りました。それは、敵であるオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍がポーラ軍港内で温存する大型戦艦3隻のうち2隻に攻撃を加えるというものでした。

ポーラ軍港に侵入した人間魚雷「ミニャッタ」。ろ獲したオーストリア・ハンガリー二重帝国海軍のB57型60cm魚雷をベースに開発された(吉川和篤作画)。
1918(大正7)年10月31日22時、ポーラ軍港の入口で「ミニャッタ」2号機は、母船である「M.A.S.-95」艇から闇に紛れて発進。2人乗りの“人間魚雷”は、障害物として浮かべてある丸太をよけて進み、防波堤を迂回したのち夜中の3時には、潜水艦や魚雷が侵入するのを防ぐために張られた三重の防御ネットを突破することに成功します。
この時点で魚雷の推進燃料である圧縮空気は半分以上を消費していたため、港の入口で待つ母船のM.A.S.艇へ帰還することは無理であることを2人は悟ります。「片道切符」になることを決意すると、港内に停泊する艦船群の中でもひときわ大きい戦艦「フィリブス・ウニティス」(排水量約2万1千トン)に目標を定め、朝4時半には目標の100m前方まで到達しました。
船底に弾頭のひとつを取り付けて時限装置を起動させますが、そこで「ミニャッタ」が敵艦の水兵に発見されてしまい、2人は捕えられます。彼らは爆弾をセットした戦艦「フィリブス・ウニティス」のうえで尋問を受けました。
そして定刻。2人が乗った戦艦「フィリブス・ウニティス」は、艦全体を震わす大爆発を起こすと、爆破口からの浸水で船体は右に急速に傾斜、15分後には転覆して300人のオーストリア・ハンガリー将兵とともにポーラ港内に沈んだのでした。
ちなみに、このとき迷走していた「ミニャッタ」の残りの弾頭も湾内で爆発、この影響で兵員輸送船として用いられていた大型汽船ウィーン(排水量約7300トン)も沈没しています。
ただ、当のロセッティとパオルッチは沈没前に海に飛び込んだことで命拾いします。一旦は敵の船に収容され捕虜になったものの、5日後にはポーラ軍港を占領した味方イタリア軍により解放され、無事祖国に帰還しました。
イタリア海軍において、この特攻作戦が与えた影響はかなり大きかったようで、その後も密かに特殊攻撃用海中兵器の研究が続けられます。その結果、第2次世界大戦においてイタリア海軍は新型の「人間魚雷」や爆破工作フロッグメンを特殊作戦で活用しています。
100年以上前に、ひとりのイタリア人技術将校がろ獲(捕獲)した敵魚雷を転用して作り上げた「水中バイク」、21世紀の現代において各国の特殊部隊で多用されるほどになっているとは、当時のイタリア軍幹部は誰も夢想だにしなかったといえるのではないでしょうか。