第2次大戦において、水中バイクと呼べる人間魚雷やポケット潜水艦などの特殊兵器を積極的に開発したイタリア海軍は、1人乗りの突撃ボートも地中海で運用していました。搭載する折り畳み筏で生還可能という驚きの戦法とは?
観光用ボート転用の新兵器第2次世界大戦のイタリア海軍についてしばしば語られる「戦果の大きさと搭乗員の勇気は、艦艇の排水量に反比例する」という“法則”は、さまざまな小型特殊艇の誕生と戦果で引き合いに出されますが、そのひとつに1人乗りの突撃ボートも含まれます。
大戦前に東アフリカで領土(植民地)の拡大を狙っていたイタリアは、1935(昭和10)年10月に当時、自国植民地であったソマリアの隣国エチオピアに侵攻します。しかし、この行動は国際社会におけるイタリアの孤立を深め、イギリスやフランスとの関係を悪化させました。
こうしてイタリア海軍は対英戦争を意識するようになり、密かに特別攻撃部隊の編成とそのための新兵器の開発を始めます。これは先の第1次世界大戦において大型戦艦撃沈という大きな戦果を上げた「M.A.S.魚雷艇」「人間魚雷」という2種類の特殊兵器の戦訓を活かしたもので、開発と並行して編成された新兵器を運用するための専門部隊は「第1M.A.S.」部隊と呼ばれました。
第2次世界大戦中の1941年3月、M.T.M.型突撃ボートの攻撃によって大破したイギリス海軍の重巡洋艦「ヨーク」(画像:バンクーバー公文書館)。
そして1935(昭和10)年から「M.T.型」と呼ばれる小型の特攻艇の開発が始まります。これは観光用の高速モーターボートを基に試作された軍用艇で、見つかりにくい小型艇という点を活かして、停泊中の敵艦に密かに近付き、体当たり直前に搭乗員は船体後部から脱出するというものでした。このように特攻とはいえ、旧日本軍の死を覚悟した特攻とは異なり、生還を前提にした戦法に沿ったものです。
量産型はM.T.M.型「バルキーノ」(小型ボート)と呼ばれて激しい訓練が行われ、部隊は拡充され、第10M.A.S.部隊「デチマ・マス」と改称します。水中バイクのS.L.C.型人間魚雷と共に敵艦隊のいる泊地への潜入・攻撃の切り札とされます。
このM.T.M.型は、木製合板の軽量船体に95馬力を発揮するアルファ ロメオ社製6c 3500型エンジンを搭載しており、最大速度は30ノット(約55km/h)以上を出すことができました。操縦席は脱出を考慮して艦尾に配置され、その前にU字に彎曲した防弾板が装備されています。
M.T.M.型突撃ボートの攻撃方法は、高速を活かして目標艦に近付いたところで搭乗員は予測される衝突進路に舵を固定。その後目標の90m以内まで来たら搭乗員はレバーを引き、操縦席後部の折畳み式救命筏を外し海面に落とすとともに、突撃ボートから脱出します。
無人となったM.T.M.型ボートは、敵艦に衝突すると、艇首にあるトリガーバーによって、まず小型信管が作動し火薬を爆発させることで船体を2つに折って沈没させます。そして、2つに折れたM.T.M.型ボートの船体が敵艦の吃水線下まで沈んだところで、今度は水圧式信管が作動してメインの330kg爆薬に点火。これにより敵艦を沈めるという流れでした。
なお、この間に搭乗員は海面に落としておいた救命筏に這い上がり、爆発の衝撃波をかわすという複雑な戦法を採っていました。

高速でデモ走行するM.T.M.型突撃ボート。搭乗員は操縦席から乗り出して折畳み式救命筏に腰掛けているが、これは脱出前の状態で、通常は中に座り頭だけ出す(吉川和篤所蔵)。
このように突撃ボートは、搭乗員の生還を期した構造になっていました。しかし脱出するのは衝突の数秒前というきわどいものであり、実際には目標到達を確実にするために搭乗員達がその身を犠牲にすることもあったと伝えられます。
また、前述したような複雑な二段階式の点火装置を敬遠し、搭乗員自ら、最初の敵艦への衝突で直接メイン爆薬の信管が作動する改造をしばしば行っていました。
ハナシを元に戻すと、こうして開発されたM.T.M.型突撃ボートは、1940(昭和15)年にイタリア海軍に納入されます。そして、このM.T.M.型を運用するために、甲板に電動ウインチや発進レールを増設する改造が、セラ級駆逐艦(排水量960トン)の一部の艦に施されました。なお、この改造が施された駆逐艦は1隻でM.T.M.型6隻を搭載でき、各艇を35秒間隔で発進させる能力を有していました。
クレタでの栄光とマルタでの敗北第2次世界大戦の勃発から1年半後、M.T.M.突撃ボート部隊に出撃の好機が訪れます。1941(昭和16)年3月25日、地中海においてイギリス海軍の拠点となっていたクレタ島に向けて第10M.A.S.部隊「デチマ・マス」が出撃。2隻の駆逐艦に搭載された6隻のM.T.M.型突撃ボートは、深夜にクレタ島沖で降ろされ翌日未明にスダ湾に侵入します。
6艇は早朝までにイギリス軍の目を盗んで、港の入り口に張られた4重の潜水艦や魚雷などの侵入を防ぐネットを乗り越え、奥で停泊中の英重巡洋艦「ヨーク」(排水量8250トン)を発見することに成功しました。
港に侵入した6艇のうち2艇が、並走しながら猛然と突入。巡洋艦「ヨーク」の80m近くまで肉迫すると2艇の搭乗員は相次いで脱出、「ヨーク」を大破させたのです。また別の1艇は港に停泊中のタンカー「ペリクレス」(排水量8825トン)を沈めました。

M.T.M.型突撃ボートD型「8B」号。
なお、イギリス側は完全に虚を突かれた形となったため、この攻撃を低空で侵入した航空機による魚雷攻撃と勘違いしたほどだったといいます。一方、M.T.M.突撃ボートの搭乗員は全員生還して捕虜になっており、この奇襲はイタリア側の完全な成功となります。
ただし、この攻撃から4か月後の1941(昭和16)年7月26日にM.T.M.突撃ボート9隻で行われたマルタ島ヴァレッタ軍港攻撃では、夜明け前に防御ネットで侵入を阻止されたところでイギリス軍に発見され、十字砲火を受けて全員が戦死するという大損害を被っています。
また戦争が進展するにつれ、イギリス軍のレーダーを含む警戒網が強化されるようになると、次第に突撃ボートは出撃しにくくなっていきました。しかし終戦間際の1945(昭和20)年4月16日、深夜フランス国境の近くに停泊中であった仏駆逐艦「トロンベ」(排水量1320トン)の攻撃にM.T.M.突撃ボートは成功し目標を大破させており、最期の戦果を上げています。
ちなみに、M.T.M.突撃ボートはドイツや日本にも影響を与えています。似たような突撃艇としてドイツ海軍は「リンゼ」艇を開発。また旧日本陸軍は「マルレ」艇を、旧日本海軍は「震洋」艇を開発しますが、こちらはイタリアとは異なり、最終的には搭乗員の犠牲を前提にした体当たりの特攻兵器として用いられました。