第2次大戦中、主翼が2枚ある複葉機は、一般的に単葉機よりも低性能だったため、各国では旧式機として扱われるのが多かったなか、イタリアでは「史上最強の複葉戦闘機」と呼ばれた機体が使われ続けました。エースまで生んだ“名機”を探ります。
第2次世界大戦で用いられたイタリア製戦闘機には、イタリア軍が戦ったとは思われていないような意外な場所で、大きな戦果を挙げた機体がいくつか存在します。なかでも一見すると旧式のように見えるものの、敵機5機以上を撃墜するなどしてイタリア空軍のエースを生み出したのが、複葉戦闘機のフィアットCR.42型でした。
第1次世界大戦で発展した複葉機は、機体が軽く小回りが効くという運動性能に優れた利点がありましたが、多くが木製の骨組みに布張りの構造のため強度に限界がありました。そのため、戦闘機の命でもある最高速度の向上を目指して、より大馬力のエンジンを搭載するには構造的に頑丈な単葉機が有利で、次の世代を担う戦闘機として採用されるようになります。また布張りで薄い主翼では、翼内に機関銃や燃料タンクを搭載できず、これも金属製の単葉機の方が有利でした。こうして第2次世界大戦前には、複葉機は時代遅れとなっていきます。
1940年夏、エーゲ海諸島スカルパント基地に展開する独立第161航空群所属のCR.42型「ファルコ」。イタリア参戦時、数の上ではこの複葉戦闘機が空軍の主力だった(吉川和篤所蔵)。
戦前、経済的な理由などで機材の近代化が遅れていたイタリア空軍は、1936(昭和11)年頃から保有する戦闘機の近代化を目指すようになります。そのなかで、複数メーカーの金属製単葉(主翼1枚)機が開発・配備され、ようやくイギリスやフランス、ドイツなどが運用する近代的な航空機と性能的にそん色ないものを手にすることができるようになりました。しかし新型機は取得コストが高かったため、それらとは別に安価で生産しやすい、技術的にもこなれた複葉の戦闘機も、引き続き開発・製造され続けました。
そのような理由から複葉戦闘機であるCR.42は生まれたといえるでしょう。
それでもフィアットCR.32型戦闘機をベースにした試作機は、1938(昭和13)年5月に初飛行にこぎつけます。新型機は、840馬力の空冷エンジンを搭載して430km/hの最高速度を発揮、運動性能とそれに伴う空戦能力についても高評価を受けたことで、空軍に採用されます。
本機には、新たにCR.42型として型番が降られ、ハヤブサを意味する「ファルコ」という愛称も付けられ、直ちに配備が始まりました。しかし、すでにイタリア以外の主要国では軍用機については複葉機からより高性能な単葉機への切り替えが進んでおり、イタリアも例外ではありませんでした。

1940年後半のバレンツ基地、独立第412飛行隊のヴィシンティーニ中尉のCR.42型。部隊マークとして第4航空団由来の赤い馬が、黒いアフリカ大陸の上に描かれている(吉川和篤作画)。
当初はイタリア空軍にとって、フィアットCR.42型の採用は、高性能な次世代単葉戦闘機であるマッキMC.200型やフィアットG.50型などが本格配備されるまでの、いわば「つなぎ」としての意味合いが強いものでした。しかし、ふたを開けてみると、イタリアが第2次世界大戦に参戦した1940(昭和16)年6月10日時点では、イタリア空軍が保有する戦闘機のうち、実に40%にも上る300機(うち稼働機は220機)が本機で占められており、つなぎと考えていた“旧式機”が主力を担っているような状況でした。
結果、各国の主力戦闘機と比べた場合、明らかに「時代遅れの旧式機」といえるようなCR.42が、最前線で用いられることになります。しかし、イギリスと空軍戦力が拮抗していた東アフリカ戦線では、高い整備性や運用のしやすさなどから、複葉機ながらもCR.42型は勇戦。
こうして、東アフリカ戦線で戦果を重ねたフィアットCR.42型は、1940(昭和15)年秋、新たな戦いの場に駆り出されることになります。同年から始まったドイツ空軍によるイギリス本土航空戦、いわゆる「バトルオブブリテン」に、ドイツの同盟国イタリアも参戦することとなり、その支援として、CR.42型が高性能なG.50型戦闘機とともにベルギーに送られたのです。
この増援には、イタリア空軍のBR.20型およびカントZ1007型爆撃機も参加しており、それら爆撃機部隊によるイギリス本土攻撃の護衛機として、CR.42は迎撃に上がってくるイギリス軍戦闘機と死闘を演じました。

1940年秋、ベルギー北部のマルデゲム基地に展開した第18航空群第85飛行隊所属のCR.42型。数の上でも性能の面でも、イタリア航空軍団戦闘機隊の中核を担っていた(吉川和篤所蔵)。
たとえば同年11月には、イギリス上空でBR.20型爆撃機10機を護衛中のCR.42型42機に対して、「ハリケーン」や「スピットファイア」といったイギリス戦闘機25機が迎撃を実施しています。
そのシルエットから当初、イギリス軍戦闘機パイロットは訓練中の味方「グラディエーター」複葉機と誤認してしまったほどで、その隙をついたイタリア空軍のCR.42型は、空戦でイギリス軍戦闘機4機を撃墜。その内1機を墜としたジュゼッペ・ルッツィン曹長は、この功績によりドイツ空軍より鉄十字章を授与されています。
ちなみに、このルッツィン曹長はこのあともCR.42型戦闘機で敵機の撃墜を重ね続け、最終的に総撃墜数5機でエースになっています。
また同月23日には、イギリス本土海岸地帯の攻撃に出撃したCR.42型機27機が、イギリス空軍の「スピットファイア」戦闘機20機に取り囲まれるものの、20分間の空戦で味方2機を失いながらも敵3機を撃墜、その空戦能力の高さを証明しています。
なお、CR.42型は空戦において、意外な“強さ”を発揮したとも。
しかし1941(昭和16)年に入るとイギリス戦闘機隊は、この運動性能は良くても低速な複葉機CR.42との空戦方法について研究したことで、逆にイタリア側の損害が急増するようになります。この影響で、生き残ったCR.42型は爆弾ラックを増設した地上攻撃機へと転用されるようになりました。また、黒い夜間迷彩をまとった夜間戦闘機(CN)型も開発され、こちらは1943(昭和18)年9月のイタリア休戦まで地道にイギリス軍爆撃機の撃墜を続けています。
フィアットCR.42型は、一見すると時代遅れな外見ながらも、驚くべきことに撃墜数が5機を超えるエースを、第2次世界大戦中に9人も生み出しています。
これは本機が、旧式とはいえ基本性能が高かったことを証明するものといえるでしょう。凡庸な性能ゆえに乗り手を選ばなかったことで、大戦終結まで使用された本機の生産数は複葉戦闘機としては異例の1780機に達しました。そして生き残った機体は、1950年代まで練習機として使用され、その生涯を全うしたのでした。