建造当初は巡洋戦艦だった旧日本海軍の「榛名」が1913年の今日、進水しました。僚艦の「比叡」とともにお召艦としても使われたほか、近代化改修を2度受け、太平洋戦争では戦艦として様々な海戦に参加。

最期は本土、呉での空襲でした。

2度の近代化改修を受けた巡洋戦艦

 1913(大正2)年の12月14日は、旧日本海軍の戦艦「榛名」が進水した日です。ただし、当初は巡洋戦艦として建造されました。

「榛名」は金剛型戦艦の3番艦。完成時は排水量約2万7300トン、水線長212m、速力27.8ノット(51.49km/h)でした。よく知られる複雑な形をした艦橋はまだなく、3本の煙突と2本のマストが立ち並んでいました。

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第一次近代化改修を受けた後の戦艦「榛名」(画像:アメリカ海軍)。

 進水から約10年後の1924(大正13)年4月、「榛名」は日本の主力艦で最初に近代化改修を受けます。理由は当時、金剛型の4隻が旧日本海軍の戦艦群の中で最も艦齢が古く、また巡洋戦艦のままでは防御力に難ありと判断されたためなどです。改修には5年もの歳月が費やされ、結果「榛名」は主砲の仰角向上、魚雷に対する水中防御力の強化などが施されました。ただし、改修により排水量が3000トン増加したことで、速力は25ノット(約46.3km/h)に低下しました。

 改修後の「榛名」は僚艦の「比叡」とともに、お召艦としても使われました。

1928(昭和3)年には昭和天皇の即位を記念した観艦式にも参加しています。

 1931(昭和6)年6月、「榛名」は正式に戦艦となります。その2年後、またもほかの艦に先駆けて、今度は第二次近代化改修を受けます。1934(昭和9)年に完了すると、排水量がさらに3000トン増加したものの、今度は主機関の出力向上が図られたことなどで速力は竣工時を上回る30.5ノット(約56.49km/h)に。対空兵装も強化されました。

同型艦4姉妹で唯一、日本本土で解体

「榛名」が本格的な戦闘に参加するのは太平洋戦争からです。南方への作戦では、1942(昭和17)年2月のクリスマス島への艦砲射撃、同年6月のミッドウェー海戦では、空母部隊の掩護などに就きました。しかしこの海戦では、空母のみならず「榛名」もアメリカ軍の空襲を受けています。同年10月には、ガダルカナル島のアメリカ軍飛行場へ艦砲射撃を行っています。

老体に鞭打ち海戦を生き延びた戦艦「榛名」-1913.12.14進水 お召艦の栄誉にも

1935年末に東京湾で撮影された。写真手前から戦艦「山城」「扶桑」「榛名」(画像:アメリカ海軍)。

 敗色が濃くなり、また海戦が航空機を主体としたものへと移り変わるにつれ、「榛名」の戦闘機会は減っていきました。

南太平洋海戦、マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦と歴戦を重ねるうち、僚艦も次々と消失。1945(昭和20)年に入ると燃料の欠乏から、日本本土の港に留め置かれることが多くなりました。

 国外の海で撃沈こそされなかった「榛名」でしたが、終戦まで1か月を切った1945年7月末、アメリカ軍による呉空襲で格好の標的となります。対空砲火で激しく応戦するも、20発以上の命中弾を受けて着底しました。

 ただし、海没は免れたため、「榛名」は金剛型戦艦4隻の中で唯一、戦争を生き抜いた艦となりました。これにより「武勲艦」とも称されます。

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