「エースパイロット」の称号は撃墜数を基にしていますが、このたびウクライナに、たった1日でエースになったパイロットが現れたといいます。その名も「キエフの幽霊」……なんだかできすぎなお話の気もしますが、果たして。
2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領は隣国のウクライナへ事実上の宣戦を布告し侵攻を開始、21世紀の現在となっては珍しい国家間における戦争へ突入しました。
「キエフの幽霊」乗機とされる、ウクライナ空軍のMiG-29戦闘機。写真は同型機(画像:アメリカ州兵空軍)。
ロシア軍は核兵器保有数で世界1位、通常戦力においても米中に並ぶ屈指の兵力を有します。対するウクライナは、決して小国とはいえないものの、ロシアに比べるべくもありません。ゆえに戦争は早ければ3日で終わるのではないかという予想さえあり、実際、戦争2日目には、ウクライナ首都キエフの陥落は数時間内であるという速報も出ました。
ところがウクライナのゼレンスキー大統領は、国民総動員令を発令するとともに、全国民が一丸となりロシア軍を迎え撃つ決意を表明。少なくとも戦争5日目(2月28日)においてもキエフは陥落しておらず、その頑強な抵抗によってむしろロシア側は戦争目標を達成していないであろうと推測されます。
ロシアは、戦争初日には早くも制空権を確保したという発表を行いました。ところが、実際はそうではなかったようです。制空権を確保したというわりには、ロシア側の航空作戦が手ぬるいのです。また、ロシア空軍機に少なくない損害が出ていることが明らかとなっています。
こうしたなかにあって、ウクライナ空軍MiG-29MU2戦闘機のパイロット、通称「キエフの幽霊(ゴーストオブキエフ)」がロシア空軍を苦しめている、という噂が、ウクライナのみならず世界中のSNSにおいて流れ始めました。
21世紀初のエースパイロット その名も「キエフの幽霊」一説によると、「キエフの幽霊」は開戦から30時間以内にロシア空軍機6機を撃墜したとされ、その戦果の内訳はSu-25攻撃機2機、MiG-29戦闘機、Su-27戦闘機、そしてロシア空軍において最も強力な最新鋭機Su-35戦闘機2機であるといわれます。また戦争5日目には、その撃墜数は10機に達したという噂もあります。

2018年、エアショーで展示飛行するウクライナ空軍のSu-27P戦闘機。同軍機の多くは旧ソ連製で、同一機種同士の戦いも発生している可能性がある(関 賢太郎撮影)。
戦場において最も優れたパイロットに与えられる称号である「エース」は、明確な規定こそないものの、通常5機の撃墜であると広く認識されています。近年は大規模な全面戦争そのものが発生しなくなったことから空中戦もなく、約40年前の「ベッカー高原上空戦(イスラエル対シリア)」や「イラン・イラク戦争」を最後に、少なくとも筆者(関 賢太郎:航空軍事評論家)が知る限りエースは生まれていませんでした。
現代に、しかもわずか1日でエースとなった「キエフの幽霊」は、まさに常識外れです。当初より、あまりにもよくできたストーリーから「キエフの幽霊は存在しないのではないか」「新作ゲームの話か」といった声も少なくありませんでした。
ところがなんと、ウクライナが公式に「キエフの幽霊」の存在を認め「キエフの幽霊」とされる人物の写真と、MiG-29によってSu-35が撃墜される様子を収めた動画について言及しました。パイロットの本名は明かされておらず、その正体は謎に包まれていますが、日本においても在日ウクライナ大使館がSNSで「1回の出撃で6機撃墜」と紹介しています。
「救国のエース」はおとぎ話か?ウクライナ国防省など当局の発言を信じるならば、「キエフの幽霊」は存在するようです。
しかし、これはあくまでウクライナ当局を信じるならばの話です。「キエフの幽霊」とされる写真は、戦争前からウクライナ空軍のWEBサイトに掲載されていたものでした。またロシア機を撃墜するビデオも、この世界の誰かが戦闘機ゲーム(皮肉にもロシア製)の映像を加工したフェイクであり、ウクライナ当局が転載したものでした。
国家存亡をかけた戦争において、使えるものは嘘でもなんでも使う、いわばウクライナによるプロパガンダ、日本風にいえば「大本営発表」であり、「キエフの幽霊」は文字通り幽霊に過ぎないと思われます。

Su-25攻撃機。地上の味方に対する近接航空支援が主任務(画像:UAC)。
一方で、ロシア空軍がかなり大きい損害を出しているらしいことはほぼ間違いなく、事実はいまだ不明ですが、そうしたなかには戦闘機による撃墜があるともされます。見方を変えるならば、ウクライナによる防空戦闘そのものが「キエフの幽霊」であり、その象徴となったともいえます。
おそらく「キエフの幽霊」誕生のきっかけは、誰かが面白半分でいい始めたものでしょう。それが極めて短期間で、しかも世界中で広く受け入れられたのは、プロパガンダの結果というよりもむしろ、「超大国の横暴に立ち向かう」「弱きを助け強きを挫く」「絶望的な戦争における救国の英雄」といった、古今東西の英雄伝説に共通する要素をすべて備えた「キエフの幽霊」を、ウクライナのみならず世界中が強く望んだからなのでしょう。
繰り返しになりますが、「キエフの幽霊」は少なくとも特定の人物ではないでしょう。しかし、事実かどうかは重要ではないのかもしれません。
ひょっとしたら我々は、500年後や1000年後に「ロビン・フッド」や「スサノオ」、実在の人物ながら虚実入り混じった「ジャンヌダルク」や「弁慶」などと並び称される、空の英雄伝説の誕生を目撃しているのかもしれません。