1939年の今日、「零戦」こと旧日本海軍の零式艦上戦闘機が初飛行しました。軽量で航続距離が長く高い格闘性能を持った機体は初戦、大空の覇者でもありました。
1939(昭和14)年の4月1日は「ゼロ戦」(零戦)が初飛行した日です。正確にはその試作機が飛行し、当時はまだ「零戦」とは名付けられていませんでした。
「零戦」の正式名称は「零式艦上戦闘機」。「零式」とは「0」、つまりこの機体が制式採用された1940(昭和15)が皇紀2600年に当たることにちなみます。当時の日本軍機の名称は、採用年の皇紀下2桁を冠すると決められていました。
アメリカ軍に捕獲された零戦五二型(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)。
「艦上」とは航空母艦に搭載する航空機の意。その戦闘機として、旧日本海軍が運用しました。日中戦争の最中であった1940(昭和15)年から1945(昭和20)年8月の終戦まで使われ、総生産機数は1万400機あまりと、国産の戦闘機としては最多です。
太平洋戦争の開戦前から日本はアメリカを仮想敵国とみなし、そこに勝り、前代の九六式艦上戦闘機の後継となる機体を模索していました。軽量で航続距離が長く格闘性能を持つ――「零戦」はそのような設計思想で誕生します。
期待通り「零戦」は高性能を発揮。太平洋戦争の初戦は主に南方で、アメリカ、イギリス、オランダといった各国の軍用機を打ち破っていきました。機首の7.7mm機銃に加え、翼内に20mm機銃を2挺備えるというのは、1930年代後半に生まれた戦闘機としては重武装だったのです。
長い航続距離に貢献したのは、使い捨てできる燃料タンクでした。日本が独自開発した「落下増槽」は、操縦席からスイッチひとつで投棄可能な外付け式の燃料タンクです。初期の二一型の場合、機内燃料タンク525リットルと落下増槽330リットルで計850リットルあまりを搭載でき、約3350kmを飛行できたといいます。
戦闘爆撃機としての性能もしかし時代が下ると、アメリカなど連合国側も「零戦」に劣らない戦闘機を開発、前線に送り込みます。たとえばアメリカのF6F「ヘルキャット」やF4U「コルセア」など、高い防御力を維持しながら高速を誇る機体は、「零戦」の大きな脅威となりました。加えて日本の敗色が濃くなると、熟練したパイロットも不足するようになりました。
ただし「零戦」もそれらに対峙すべく進化しています。派生型がいくつも生み出されましたが、たとえば戦争中期に登場した五二型には防弾ガラスや自動消火装置の付いた燃料タンクが採用され、防御力を強化していました。また、末期に登場した六二型や六三型は戦闘爆撃機としての性能も持ち、250kgもしくは500kg爆弾も搭載可能でした。
とはいえ、アメリカの大型爆撃機が日本本土に襲来するようになると、軍需工場が空襲を受け、生産も滞りを見せます。加えて物資や燃料が不足しがちになり、後継機の開発も遅々として進まなかったことから、「零戦」は終戦まで運用されることになります。
初期には善戦した「零戦」でしたが、1944(昭和19)年10月のレイテ沖海戦以降、いよいよ制空権・制海権ともアメリカに握られると、機体は特攻作戦に投入されます。日本近海に展開するアメリカなどの艦隊に対し、本土からそこへ到達できる最低限の燃料だけを搭載し、爆弾を抱き機体もろとも突入するというものでした。捨て身の戦法でしたが、艦船に命中した際には、空母や戦艦から駆逐艦や揚陸艇に至るまで、大きな損害を与えています。
「零戦」は大量生産されたことも相まって、現存する機体の数も多くなっています。なお最近では、2017年6月3日(土)と翌4日(日)に幕張海浜公園(千葉市美浜区)で開催された「レッドブルエアレース」において、二二型が飛行しています。「零戦」は戦後も“ゼロ戦”の呼び名で広く親しまれ、マンガなどにも多数登場。最も知られた戦闘機のひとつといってもよいかもしれません。