国内の航空ファンから「空の貴婦人」として愛された傑作ジェット旅客機「ダグラスDC-8」はどのように誕生したのでしょうか。当時の民間航空の王者「ダグラス社」が同機を生み出すまでを見ていきます。
JAL(日本航空)が、羽田空港の格納庫内にある同社初のジェット旅客機、ダグラスDC-8「FUJI号」の機首部分の一般公開を始めています。このDC-8、JAL初のジェット機であると同時に、ジェット旅客機の実用化を促した、世界の民間航空の歴史から見ても重要な存在です。
DC-8は1958年5月30日に初飛行。世界初のジェット旅客機であるイギリス「コメット」の初飛行から数年後、ボーイング707やコンベア880とほぼ同時期にデビューした、いわゆる第1世代のジェット旅客機として分類されます。
JALのダグラスDC-8(画像:JAL)
DC-8の本格的な開発開始は、1950年代初め。当時のダグラス社(のちにマクダネル・ダグラス社となったのち、ボーイング社に吸収合併)は、DC-4、DC-6、DC-7プロペラ機においてヒット作を次々開発し、ボーイング社、ロッキード社を上回る世界最大の旅客機メーカーとして君臨していました。
DC-8の開発は「コメット」の登場を受け、ドナルド・ダグラス社長の意向により進められました。ダグラス社をはじめ、アメリカのメーカーがジェット旅客機開発に遅れをとったのは、第二次世界大戦下の各国の方針に違いにあるといえるでしょう。
なぜイギリスの方が「ジェット旅客機開発」が先だったのか戦時下、イギリスは大戦の終了を見越して戦後に使用する旅客機の開発に関するプランを計画的に作成していたのに対し、アメリカは時間を要するジェット・エンジンの開発よりも航空機の量産体制の確保を優先させ、まずは戦争を優位に進める物量を確保しようという狙いがあったように思われます。
こうして開発が進められたDC-8ですが、当初発注はなかったそうです。やっと注文を得たのは1955年のことで、パンナムがDC-8を25機発注し、その後世界のエアラインも続々とDC-8を選択。日本航空も1956年に導入を決定しました。
DC-8は、顧客であるエアラインからの強い要望もあり、胴体幅を横に拡張して、座席が横3-2列、計5席配置から、横3-3列、計6席を標準仕様としました。胴体は客室の広さと貨物室の広さを確保すべく、円を2つ重ねた「ダブルバブル」構造を採用。こうした胴体の基本的な設計は後継機のDC-9、そしてMD-90まで引き継がれることになります。
傑作機となったDC-8 実は「世界初」も?DC-8の試作型は「N8008D」という登録記号(自動車のナンバーに相当)を取得し、同型機製造のため新設され、その後のマクダネル・ダグラス社の主要施設となるロング・ビーチの工場で完成し、そこに設置された空港で初飛行しました。翌1959年9月18日にデルタ航空とユナイテッド航空の国内線に就航。デルタ航空は世界初のDC-8を路線に投入したエアラインと記録されています。
デビュー後のDC-8はシリーズ化が図られ、胴体の延長、初期タイプの「ターボ・ジェット・エンジン」より騒音が低く燃費効率の良い「ターボ・ファン・エンジン」などへのエンジンの更新、主翼の拡張などが実施された派生型が次々に登場。おもに長距離路線を担当する旅客機として、シリーズ累計で556機が製造されました。
翼型やエンジンと主翼の接合部分「パイロン」の設計などは現代の旅客機のスタンダードを作ったともいわれており、華やかな見た目のウラに、旅客機の名門らしい機体デザインの妙があったことも特筆すべきポイントです。

羽田空港に保管されているJALの「FUJI号」機首部分(乗りものニュース編集部撮影)。
日本国内では、1960年にJALが冒頭のFUJI号を就航させたのを皮切りに、27年間にわたり、DC-8-30、-50、-60の各シリーズで計60機を導入(リース機含む)。
ちなみに実はDC-8、「世界初の超音速ジェット旅客機」です。と言っても、「コンコルド」のように、超音速巡航ができるという機体ではありません。同型機は研究のために1961年、カナディアン・パシフィック航空に納入予定の機体を使用して、エドワーズ空軍基地から離陸。急降下中にマック(マッハ)1.012に達し、超音速飛行を果たしたと記録されています。