自動車や馬で牽引・運搬する大砲よりもはるかに巨大かつ大威力な列車砲。よく知られるのは陸続きのドイツやフランス、ロシアのものですが、我が国にもありました。
現代戦には必須ともいえる野砲。射程や威力を高めるため大口径化すれば、自動車や馬などの牽引・運搬や、クローラー(キャタピラ)あるいはタイヤで自走化することにも限界が生じてきます。
そこで、第2次大戦まで採られた手段が鉄道移送です。大砲を台車に載せて砲台とし、移動する場合は機関車で牽引すれば、牽引砲や自走砲より大きく重かったとしても機動性があります。こうした発想で生まれた「列車砲」は19世紀半ばのアメリカ南北戦争で生まれ、20世紀前半に多用されました。
1945(昭和20)年9月に、アメリカ戦争省(現国防総省)が作成した日本軍資料に掲載されていた九〇式二十四糎列車加農。フランスで台車に搭載した状況(画像:国立国会図書館デジタルコレクション)。
列車砲のなかでは、ドイツが開発し第1次世界大戦で使用した21cm列車砲、通称「パリ砲」や、第2次世界大戦に用いた80cm列車砲、通称「グスタフ」などがよく知られています。また、ドイツと激しく戦ったフランスやイギリス、旧ソ連も列車砲を使用していました。
これらヨーロッパの列車砲は、国境を接した敵国の都市や軍事拠点を標的にした超長射程砲でした。前線のはるか後方から目標を狙い撃ちできるため、旧日本陸軍もヨーロッパにならって、第1次世界大戦後に列車砲を導入しています。
その列車砲の名は「九〇式二十四糎(24cm)列車加農」。加農は「カノン」の意味です。この兵器が生まれるまでの経緯を紐解きます。
日本の列車砲はなぜ生まれた?江戸時代後期の18世紀末からロシア、イギリス、アメリカの船がしばしば日本に来航し始め、国防のために砲台の必要性が検討され始めました。それを具体化したのがペリー来航をきっかけに幕府や諸藩が建設した品川台場(砲台)でした。
明治維新後、1890年代半ばの日清戦争前には沿岸要塞の建設が始まります。日清ならびに日露戦争でも、大陸の陸戦と日本周辺海域での海戦で決着がついたため、沿岸要塞の出番はなかったものの、当時の設置された最大の砲は28cm榴弾砲でした。これは、要塞砲としてだけでなく、日露戦争の旅順要塞と第1次世界大戦の青島要塞を攻略する際、現地へ運ばれ使用されています。

第1次世界大戦でドイツが使用した21cm列車砲、通称「パリ砲」の射撃の様子(画像:帝国戦争博物館/IWM)。
明治時代の後半になるまで、大型の大砲を造る技術が日本では確立しておらず、これら巨砲は、主にドイツのクルップ社やフランスのシュナイダー社などから購入していました。28cm榴弾砲は国産でしたが、イタリアがドイツ・クルップ社の28cm榴弾砲を元に造ったもののコピーでした。
そして第1次世界大戦中、日本陸軍は列車砲の製造に着手します。
一方、日本陸軍は列車砲開発にあたって、明治期から大砲を輸入していたフランスのシュナイダー社から売り込みのあった大砲の砲身を1門購入しています。砲身を据える砲架と台車、電源車は国産でした。こうして、国産の列車にフランス製の大砲を載せ、1931(昭和6)年に採用されたのが、前出の「九〇式二十四糎列車加農」でした。
「大和」を超える射程の列車砲! 24cm列車砲は砲身の長さ約13m、重量136t、最大射程は50kmありました。比較として戦艦「大和」の主砲を挙げると、口径46cm、長さ21m、重量147t、最大射程は42kmです。つまり24cm列車砲は「大和」より射程の長い大砲だったのです。
この24cm列車砲は千葉県の旧陸軍富津射場でテストされ、沿岸要塞に用いる備砲として留め置かれていました。幕末や日露戦争時と同じく、日本は沿岸防備のために巨砲を配備したということです。日本は島国なので、現代の対艦ミサイル基地の役割を、当時は沿岸要塞が担っていたといえるでしょう。

1927(昭和7)年頃に撮影された九〇式二十四糎列車加農(時実雅信所蔵)。
首都防衛のため、東京湾を挟んだ千葉県と神奈川県の両岸に多数の要塞がありました。なかでも横須賀の久里浜、三浦半島の城ヶ島、南房総の大房崎、そして館山市の洲崎などにあった各要塞は、第1次世界大戦後の軍縮条約で廃艦になった戦艦の砲塔を転用していました。
また富津から横須賀にかけての海上には、人工の要塞島が4つ(第1~第4海堡)あり、24cm列車砲のある富津砲台や神奈川県側の砲台と合わせて東京湾の入口を守っていました。
24cm列車砲が採用されたのと同じ年、すなわち1931(昭和6)年に中国において満洲事変が勃発します。
満州事変によって中国東北部を満洲国として独立させ、支配下に置いた日本は、旧ソ連と国境線で対峙することになります。その備えとして沿海州を走るシベリア鉄道を射程に収めた虎頭要塞の建設を1934(昭和9)年に始め、5年後の1939(昭和14)年に完成させました。
満州へ行った日本製列車砲、どうなった?そうしたなか、旧ソ連との国境紛争は1938(昭和13)年の張虎峰(ちょうこほう)事件、翌1939(昭和14)年のノモンハン事件で現実のものになります。この一連の戦いを受けて旧日本陸軍は、より一層防備を強化するため、太平洋戦争の開戦前に「九〇式二十四糎列車加農」を虎頭要塞に配備することにしました。
九〇式二十四糎列車加農は、1942(昭和17)年に列車と船で満洲に渡っています。なお、このとき九〇式二十四糎列車加農とともに「試製四十一糎榴弾砲」も虎頭要塞に運ばれ、両砲とも砲台に転用されました。

1938(昭和13)年に起きた張虎峰事件で休戦ラインを協議する日ソ両軍の将校(時実雅信所蔵)。
しばらくは出番のなかった2つの巨砲ですが、終戦間近の1945(昭和20)年8月9日、旧ソ連軍が満州に侵攻したことで、その威力を発揮するときが来ました。
試製四十一糎榴弾砲は砲身が駄目になるまで砲撃を続け、旧ソ連の大動脈であるシベリア鉄道の鉄橋を破壊するなどの戦果をあげたといわれています。こうして日本の列車砲は、その役目を完全に終えたのでした。
終戦後、2つの大砲は旧ソ連軍に接収されたとみられますが、その後どうなったかは今も不明です。