作業船の一種に、重量物を持ち上げるクレーンを装備する「起重機船」があります。旧日本陸軍は、かつて「蜻州丸(せいしゅうまる)」という起重機船を持っていたのですが、なぜ陸軍がそんなフネを必要としたのでしょうか。

陸軍の重要ミッションに特化した船の誕生

 河川や湖沼、海岸で各種工事などに使用する作業船のなかでも、重量物を持ち上げるクレーン(起重機)を搭載した船が「起重機船」です。かつて旧日本陸軍は、「蜻州丸(せいしゅうまる)」という起重機船を持っていました。なぜ、陸軍がこのような特殊なフネを必要としたのか。その背景には日本の防衛構想にまつわる長い歴史がありました。

吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と...の画像はこちら >>

国連による中国鉄道復興事業で、香港九龍ドックにて重量100tあるアメリカのボールドウイン製機関車を陸揚げする「蜻州丸」(画像:国連アーカイブ)。

 話は、陸軍創設以前にさかのぼります。江戸幕府は、欧米列強の脅威に対処するため海防に力を入れ、みずから、あるいは諸藩に命じて海防のための台場(砲台・要塞の一種)を数多く築造しました。現在の東京・お台場もそのひとつです。

 幕府を倒した明治政府、そしてその軍隊である旧日本陸軍は幕末以来の海防任務を継承し、日本全国の重要な港湾施設のそばや海峡に面した場所に要塞を築きました。これが沿岸要塞と呼ばれるものです。

 港のそばといっても射界と視界に開けた地は、道路さえ満足にない岬の先端などが多く、このため陸軍はその名も「砲運丸」という火砲などの重量物を運搬し、揚陸させることができる船を持っていました。海防のための沿岸要塞に砲を運ぶ、それが陸軍の起重機船「砲運丸」の役割でした。

 しかし、日本が日清・日露の両戦争に勝利を得たのち、国防の第一線を大陸に進出させるようになると、旧日本陸軍において徐々に沿岸要塞の価値は低下していきます。このため、1909(明治42)年には「要塞整理案」が策定され、ついで第1次世界大戦が終わった翌年の1919(大正8)年には「要塞再整理案」が国会で可決されました。

「八八艦隊」プロジェクト頓挫ののちに

「要塞整理案」と「要塞再整理案」の目的は、明治初期以来、五月雨式に外国から購入した雑多な要塞砲を整理し、第1次世界大戦の戦訓から、より強力で射程の長い要塞砲を備えた砲台を建設することにありました。なお、その骨子には「艦砲の威力増大に対し備砲の威力を強化する、防御線を外海に推進する」と記されていました。

「要塞再整理案」は、翌年に予算2億6000万円で議会を通過、これにより、戦艦の主砲に匹敵する36cm砲と41cm榴弾砲の試作が始まります。ただ、このように新たな砲台の整備が進められることが決まったことで、起重機船についても新型を調達することが要望されたのだと推察されます。

吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と海軍が手を取り作ったワケ
Large 220719 sei 02

「蜻州丸」が部品を運搬した巡洋戦艦「赤城」の一番主砲搭の45口径40㎝連装砲塔。壱岐要塞黒崎砲台で写されたもの(画像:壱岐要塞司令部)

 ところが、その「要塞再整理案」が可決された1919(大正8)年、旧日本海軍では戦艦8隻、巡洋戦艦8隻を中心に多数の補助艦艇を建造するという、いわゆる「八八艦隊案」が成立します。この「八八艦隊」は完成した時点での維持費が年間6億円にのぼると見積もられました。ちなみにこの頃の日本の経常歳出額は15億円前後です。

 加えて、陸軍は平時、27万人から30万人の兵士を有していました。第1次世界大戦戦後の不況とシベリア出兵のさなか、新たな要塞建設や新型火砲(要塞建設とは別予算)の開発など、現実的には無茶な話でした。

 そうした状況下、1921(大正10)年に日本はアメリカやイギリス、フランス、イタリアらと軍艦の保有制限を課したワシントン海軍軍縮条約を締結。これにより海軍が策定した「八八艦隊案」は廃止されます。

 ただ、このとき同時に日本が提案した「太平洋防備条約」が締結されたことで、アメリカはハワイ以西、フィリピン以南に要塞化された艦隊根拠地を持つことが不可能になったため、日本は外交的には勝利を収めたといえるでしょう。

仕事は戦艦の砲塔を陸に運ぶこと

 ただ、これら条約締結により「八八艦隊」のために廃棄される旧式艦や、建造中止となった艦の砲が余ることになりました。この余剰砲をそのまま要塞に備えれば良いわけです。そこで、陸海軍の垣根を越えて、砲の転用を強力に推し進めていったのが、陸軍重砲開発のチーフともいえる技術本部重砲班長の松村乙吉砲兵大佐でした。こうしてワシントン軍縮条約の翌年から、陸海共同の巨大プロジェクトが始まります。

 かくして、新たな起重機船として計画された「蜻州丸」は、この巨大プロジェクトの一環として、陸軍の委託で海軍の艦政本部が設計を担当することになりました。

 ちなみに、「蜻州丸」は陸上に砲塔型の砲台を設置するという巨大な工事システムの一部をなすサブ・システムでした。砲塔型の砲台を据え付けるための機材としては120t門型クレーン、100tウインチを装備するほか、古来より重量物の運搬に使用されたシュラ(重量物運搬用のソリ)や神楽桟(ろくろ)も備えていました。

吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と海軍が手を取り作ったワケ
Large 220719 sei 03

1926年4月6日、公試中の「蜻州丸」。巨大な主クレーンが目立つ。
煙突の白い波線が陸軍船であることを示している。

「蜻州丸」は1926(大正15)年に東京の石川島造船所で竣工します。排水量は2000トンあったものの、垂線間長(船首喫水線先端と舵軸中心までの長さ)は61m。船型はたとえるなら盥(たらい)のような形をしており、このため速度は遅いものの安定が良く、また3枚舵なので小回りも効きました。これは建設作業に従事する船としては必須の能力でしょう。さらに航続距離は7ノット(約13km/h)で1500海里(約2780km)ありました。

 この船を特徴づけるのは、むろんクレーンの荷重で、メイン・クレーンは150tの吊り上げ能力がありました。戦艦「長門」型の40cm砲の砲身重量が1門約100tなので、充分な数値です。

クレーン船として東奔西走

「蜻州丸」は喫水が浅いのも特徴でした。なんと水深1.12mの浅海面でも行動できるほどで、加えてメイン・クレーンに荷物を吊って前方に振り出すと船が前に傾くため、船首を海岸に擱座させることで、クレーンの台座としてより船体を安定させることが可能でした。こうしたさまざまな特徴を持った「蜻州丸」の完成によって、陸軍は浜さえあればおよそどのような場所にも砲台を建設できるようになったといっても過言ではないでしょう。

 陸軍船として唯一無二の性能を持つ「蜻州丸」は、その存在意義を誇示するかのように、東京湾要塞、津軽要塞、豊予要塞、対馬要塞、釜山要塞、壱岐要塞と、日本各地のさまざまな砲台建設に携わりました。

吊り上げたのは軍縮の棚ボタ? クレーン船「蜻州丸」 旧陸軍と海軍が手を取り作ったワケ
Large 220719 sei 04

国連による中国鉄道復興事業で、香港九龍ドックにて重量100tあるアメリカのボールドウイン製機関車を陸揚げする「蜻州丸」(画像:国連アーカイブ)。

 こうして各地の新しい砲塔砲台の建設が終わったあとも「蜻州丸」の運用は続きます。1937(昭和12)年に日中戦争が勃発すると、「蜻州丸」は中国大陸へ出動し、上海を起点に河川の航路妨害のために沈められた船を、その喫水の浅さとクレーンの吊り上げ能力を活かして片付ける任務などに就きました。

 1941(昭和16)年に太平洋戦争が始まると、「蜻州丸」は、日本軍が占領した香港を経由してシンガポールまで進出し、サルベージ作業にあたっています。

 こうして太平洋戦争中も重用された「蜻州丸」は、幸運にも戦火をくぐり抜け、日本の敗戦に伴いイギリスに接収されます。その後もクレーン船として引き続き使用されましたが、香港へ移動したのち、同地を襲った台風により沈没。1946(昭和21)年にその生涯を閉じました。

 旧日本陸軍の要求で生まれた特異な船「蜻州丸」。派手な武装などない地味な支援船でしたが、他船にはない性能を活かして、戦前、戦中、戦後と20年にわたって重用され続けました。「黒子」「縁の下の力持ち」という言葉どおりの船、「蜻州丸」はまさにそう言えるでしょう。

編集部おすすめ