海戦史上まれな「パーフェクト・ゲーム」となり、日露戦争の勝利を決定づけた日本海海戦。その勝利の背景には、当時の新兵器、三六式無線電信機と精緻に組み立てられた情報システムの存在がありました。
1904(明治37)年から翌1905(明治38)年の間、日本と帝政ロシアが戦火を交えた日露戦争において、旧日本海軍は迫り来るロシアのバルチック艦隊(第2、第3太平洋艦隊)に対し、外務省とイギリスの協力を得て、ヨーロッパ、アフリカ、アジアにまたがる情報網を構築してその動向を追っていました。
そうした戦略レベルでの情報網により、バルチック艦隊が最終的には対馬海峡を突破することは予測できたものの、それより下の次元となる作戦レベルにおいて、同艦隊が対馬海峡のどこをいつ通過するのかも予測する必要があり、その部分で旧日本海軍は最後まで頭を悩ませ続けました。
最終的に旧日本海軍の情報戦は成功し、日本海海戦において歴史的な大勝利をつかむことになるのですが、その裏には黒子として重要な役割を果たした“新兵器”「無線電信機」と、それをうまく活用した旧海軍の知られざる通信システムがありました。
日露戦争における日本海海戦を描いた絵画、東城鉦太郎の『三笠艦橋之圖』(画像:パブリックドメイン)。
洋上での戦いは敵を捉えることがまず困難でしたが、日露戦争当時の日本海軍はロシア海軍の戦艦や巡洋艦を1隻でも逃したくないという理由がありました。なぜなら、そうした艦艇が万一少数でも、ロシア極東の要港ウラジオストクに入ると、そこを拠点に朝鮮半島と遼東半島への陸軍の海上補給を妨害しようと動き回る恐れがあるからです。そういう懸念から日本海軍には、バルチック艦隊を壊滅させるパーフェクト・ゲームという重い荷が、当初から課せられていたのでした。
このため、先に述べたように日本海軍は地球の半分をカバーするほどの巨大な情報網を作り上げるとともに、日本近海にも、通称「碁盤の目」と呼ばれる精緻な哨戒ラインを構築し、その役目を担う哨戒専用の艦隊(第三艦隊)を編成していました。
これらの船には、第一線で戦う第一(戦艦)艦隊や第二艦隊(巡洋艦)と同様に、当時の最新兵器ともいえる三六式無線電信機が備えられていました。
日露戦争の前年に「国産化」そもそも、無線電信が実用化されたのは、19世紀末のヨーロッパでのこと。1896(明治29)年にイギリス人を母に持つイタリア人のグリエル・マルコーニが、電磁波(電波)をアンテナから飛ばし、それを別のアンテナで受けるという実験に成功し、イギリスで特許を取ったのが始まりでした(翌年にマルコーニは無線電信機の会社を設立)。
当時は、まだ真空管が登場する前だったため、開発されたばかりの無線電信機は、大電流のスパークで電磁波を発生させる「非同調式普通火花(瞬間火花放電式)」送信機と、金属粉末の電導特性を利用したコヒーラ検波器からなる受信機で構成されるという、大掛かりなものでした。
そういった不便さはあったものの、通信にケーブル(伝送路)が必要ないことは大きな利点でした。その利点をもっとも活かせるのが移動体どうしでの情報のやりとりです。そして無線電信にいち早く興味を示したのが、各国の運輸通信関係の省庁と海軍でした。この装置があることで地上とフネ、もしくはフネ同士においても、通信手段に柔軟性が生まれ、情報のやり取りが飛躍的に迅速かつ広範囲に実施できるようになったのです。

中国航路時代の「信濃丸」(当時の絵葉書より)。
この頃、イギリスに戦艦を発注していた日本海軍は、無線機に関して同じイギリスのメーカーであるマルコーニ社のものを購入・搭載しようとしましたが、特許使用料が高価で購入を諦めています。
そこで日本海軍は外波内蔵吉(となみ くらきち)少佐に調査研究を命じ、さらに逓信省電気試験所主任の松代松之助、仙台第二高等学校の木村駿吉を海軍に転籍させ無線機の開発を命じました。
関係者の努力の結果、国産初の無線電信機は完成。日本海軍は1900(明治34)年に「三四式無線電信機」として制式化します。しかし、この無線機は性能が低く、また安定性が悪かったことから、より高性能な無線電信機の開発が必要となりました。
その結果、日本海軍が満足しうる性能を持つ無線電信機として1903(明治36)年に誕生したのが、日露戦争の前年に制式化された三六式無線電信機です。
一方、当時の日本海軍は哨戒などに使うため、多くの民間船を徴傭(ちょうよう)、つまりチャーターしていました。なお、このように民間船を軍が用いることは、日本に限らず各国で行われていたことで、戦時に民間船を徴傭して補助任務に就けることは海軍としては当たり前のことでした。
そういった海軍徴傭船の1隻が、日本郵船の貨客船「信濃丸」(6388総トン)です。同船は、1900(明治34)年にイギリス、グラスゴーのデビッド・ウイリアム・ヘンダーソン社で竣工したばかりの最新船(当時)でした。「信濃丸」は日本回航後、貨客船として早速シアトル航路に投入され、のちに小説家として名を馳せた永井荷風もアメリカ留学の際に乗船するなどしています。

現在、記念艦「三笠」に展示中の三六式無線電信機のレプリカ。なお、この無線電信機は2017年に重要科学技術史資料として登録された(樋口隆晴撮影)。
この「信濃丸」、当初は日本陸軍に徴傭され、軍隊輸送船として用いられていましたが、中国大陸への兵力集中がおおむね完了した1904(明治37)年の暮れには陸軍を解傭(かいよう)され、今度は海軍に徴傭されて、翌1905(明治38)年の初頭には巡洋艦へ改装されました。
なお、こうした民間船転用の巡洋艦を「仮装巡洋艦」と呼びます。
改装が終わった「信濃丸」は、4月に入ると対馬を起点に哨戒任務へ投入され、やがて日本海海戦当日、すなわち運命の5月27日を迎えます。
この日、午前2時45分、「信濃丸」は1隻の所属不明船を発見します。その船を観察しようと、左舷側から近づくと……船首左舷方向に数十隻の船と煙突から上がる煙を確認しました。なんと、このとき「信濃丸」はバルチック艦隊の隊列に入り込んでしまっていたのです。
4時47分、「信濃丸」の三六式無線機は「敵艦隊ノ煤煙ラシキモノ見ユ」と打電します。さらに5分後の4時52分には「タタタタタタタモ二〇三YRセ」の電文が打たれました。これは「敵の第二艦隊(バルチック艦隊)見ユ。地点符号203(北緯33度20分東経128度10分)。信濃丸、発信」を意味するコードです。この電文は、同じく哨戒任務にあたる第三艦隊の「厳島」が中継することで、朝鮮半島南岸の鎮海湾に待機する日本海軍の連合艦隊司令部へと転電されました。
以後、バルチック艦隊には巡洋艦「和泉」も張り付き、その状況を報告し続けました。
こうして連合艦隊は、日本海海戦において世界の海軍関係者によく知られた敵前大回頭、いわゆる「東郷ターン」や、戦艦「三笠」以下の正確な射撃、そして一糸乱れぬ艦隊運動などにより、ロシアのバルチック艦隊を撃滅しましたが、これらは戦術や戦技というミクロなレベルの行動にすぎません。旧日本海軍における真の勝因は、無線電信機を各艦船に装備したこと、そしてそれを作戦面で使いこなす大きな仕組みを創ったことにあったのです。
ちなみに、「信濃丸」に無線電信機が装備されたのは、日本海海戦直前ともいえる4月になってからでした。ゆえに三六式無線電信機は「間に合った兵器」だったといえるでしょう。

日露戦争における日本海海戦で生き残ったロシア海軍の戦艦「オリョール」。日本海軍に拿捕された後、「石見」として再就役している(画像:アメリカ海軍)。
「信濃丸」は日露戦争後、民間の貨客船へと戻り、欧州航路で使われましたが、新鋭船がこの航路に就航したことにより、中国向けの近海航路に転用されました。「近代中国の父」と形容される独立運動家、孫文が日本に亡命する際に乗船したのも「信濃丸」でした。
貨客船から退くと「信濃丸」は北洋漁業の蟹工船へと転用され、さらに太平洋戦争が勃発した後は、日本陸軍の輸送船として久方振りに徴傭されます。ちなみに、太平洋戦争中の「信濃丸」には、のちに漫画家となる若き日の水木しげるが陸軍兵士として乗船しています。
太平洋戦争では多くの日本船が失われるなか、「信濃丸」は生きながらえました。
太平洋戦争において旧日本海軍が負けたのは、情報を軽視したからだとよく言われます。しかし、日露戦争時の旧日本海軍はそれとは反対に、情報を重視したために勝利を得ていたのです。その裏には、あまり知られていませんが、当時の日本人技術者が苦労の末、完成させた国産の無線電信機と、それを駆使した「通信情報システム」という目に見えない存在があったのです。そして「信濃丸」はその一端を担ったといえるでしょう。
※一部修正しました(9月5日9時10分)。