他の高雄型ファミリーと運命を共にした3番艦でした。
妙高型のマイチェンモデルとして誕生当時の絵葉書になった竣工時の「摩耶」。
今から92年前の1930(昭和5)年11月8日。旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」が進水しました。
「摩耶」は、旧日本海軍の重巡洋艦としては"第4世代"にあたる「高雄型」の3番艦です。姉妹艦としては、ネームシップの「高雄」以外に、「愛宕」「鳥海」がいます。
高雄型巡洋艦が計画・設計された時期は、折しもワシントン海軍軍縮条約で戦艦などの建造が厳しく制限されたころになります。制限の対象は主力艦で、制限を受けない巡洋艦として「基準排水量1万トン、主砲口径8インチ」以下が定義されていました。そこで各国は、この制限ギリギリまでのスペックの巡洋艦を多数建造していくことになります。日本でその嚆矢のひとつとなったのが、妙高型で、「摩耶」を含む高雄型はそれに続く第二弾といえるものでした。
「摩耶」の基準排水量は9850トン、主砲口径8インチ(20.3cm)で、まさにギリギリのスペック。その後ロンドン海軍軍縮条約ではさらに制限が厳しくなったため、旧日本海軍は最上型をはじめ、制限項目のみクリアした、実質的な重巡洋艦である“名ばかり軽巡洋艦”を建造していくようになります。
高雄型は基本的に先代の妙高型を踏襲したもので、明確な違いは指揮所といえる艦橋が要塞のように大きくなっている点。さらに主砲の仰角は対空性能を高めるために55度から70度まで引き上げられことなどでした。
その後、日本がワシントンとロンドンの両軍縮条約から脱退したことなどで、高雄型重巡洋艦の4隻は近代化改装を受けることになります。ただ、改装は1番艦「高雄」、2番艦「愛宕」のみに留まり、「摩耶」「鳥海」の2隻は未改装のまま平洋戦争を迎えることになりました。そのようななか、「摩耶」は1943(昭和18)年にラバウルで空襲を受け、機能喪失寸前になりましたが、なんとか本土へ戻り、修復とともに念願の改装を実施します。
このときに「摩耶」は3番主砲塔を撤去して、その位置に12.7cm連装高角(高射)砲を2基設置。さらに25mm機銃や13mm機銃、電探(レーダー)などを大増設して事実上の防空巡洋艦へと性能を一新しています。なお、これら改装による排水量増加で低下した復原性を補強するために、船体の両側にはバルジ(膨らみ)を増設しました。改装は1944(昭和19)年4月9日に完了し、戦線へと復帰します。
ただ、そこから命運が尽きるまではわずか半年しかありませんでした。「摩耶」が沈んだのは1944(昭和19)年に起きたフィリピン沖でのレイテ沖海戦で、10月23日にパラワン島西部の海峡で敵軍の魚雷攻撃を受け、同型艦「愛宕」とともに沈没します。
なお、姉妹艦の「高雄」もそのまま戦闘不能となったほか、「鳥海」についても2日後には沈没。わずか3日間で高雄型重巡洋艦は全滅を迎えてしまいました。