太平洋戦争勃発直前の12月1日、戦う前にアメリカやイギリスに作戦計画が漏れる危機がありました。なんと支那派遣軍総司令部の作戦命令書を乗せた航空機が台湾を離陸後、中国国民党政府の勢力圏付近で消息を絶ってしまったのです。

上海号が消息を絶ち大本営も大慌て

 1941(昭和16)年12月8日といえば、旧日本海軍がアメリカ海軍の一大拠点であるハワイ・真珠湾を攻撃して太平洋戦争が始まった日として知られています。入念に準備を重ねていた旧日本軍は、開戦と同時にマレー半島やフィリピンにも侵攻し、快進撃を続けます。

 しかし、日本の作戦計画が、開戦前に露見する危機があったことはあまり知られていません。12月1日、対米英戦にかかわる軍事機密書類を運ぶ航空機が、中国・広州付近の敵勢力地域で消息を絶ち、陸軍が大騒ぎした事件があったのです。この事件は「上海号不時着事件」と呼ばれています。

ハワイ真珠湾攻撃が失敗したかも!? 旧日本軍・大本営が震撼 ...の画像はこちら >>

上海号の捜索を担当した九八式直接協同偵察機(画像:サンディエゴ航空宇宙博物館)

 12月1日、午後12時台湾の台北飛行場から中華航空(当時)所属のDC-3旅客機「上海号」が当時日本の勢力圏だった広東省の広州を目指し飛び立ちます。なお、この中華航空とは、日本軍の傀儡政権である中華民国臨時政府や中華民国維新政府などが出資して1936(昭和11)年に新設された航空会社で、運航を担う乗員、利用する乗客の双方とも日本人がその多くを占めていました。

 この上海号は、離陸から3時間後の午後3時には広州に到着するはずでしたが、汕頭(せんとう)上空通過時の通信を最後に連絡が途絶え、午後4時を過ぎても機影を確認することができなかったため、燃料が枯渇する午後5時過ぎ、中華航空は遭難の気配濃厚として支那派遣軍総司令部に報告します。この報告で、司令部は大混乱となり、慌てて九八式直接協同偵察機(直協機)を飛ばし上海号の捜索を開始。なお、現地から情報が伝えられた東京の大本営も強いショックを受けたといいます。

 なぜ、陸軍や大本営が焦ったかというと、同機に8日から開始する予定だった香港攻略作戦の作戦命令書を持った杉坂共之少佐が搭乗していたからです。すでに暗号電報で、イギリスの勢力圏である香港への攻略作戦に関する命令は発せられていましたが、慣例にしたがって支那派遣軍総司令部の作戦命令書を広東の第二十三軍司令官に手渡す予定でした。

 当時、広州の周辺は飛び地のような形で日本軍の勢力圏に入っており、広東省の大部分は中国国民党政府側の勢力下という状況でした。敵勢力範囲に墜落した確率が高く、万一作戦命令書が敵の手に渡れば一大事になるのは間違いありません。

 なお、上海号に関しては特に隠密行動をしていた訳ではないようで、機密書類への言及こそありませんが、当時の新聞にも普通に上海号が消息を絶ったと掲載されています。

不時着機は爆撃で破壊!機密文書の行方は?

 頼むから海に墜落していてくれという旧日本陸軍の願いも空しく、12月3日には仙頭と広州の中間付近の山岳地帯に墜落しているのが発見されます。DC-3「上海号」の機首は破損していましたが、胴体部分が原型を留めており生存者がいる可能性がありました。しかし、同地は敵勢力圏であったということで、直ちに不時着機を爆却(爆撃・焼却)せよという命令が司令部から下り、直協機による爆撃で処分されることとなりました。

 ただ、上海号に搭乗していた乗客のうち数名は生存しており、そのうち杉坂少佐と久野寅平曹長については敵に情報がわたるのを恐れ、機密書類を破棄後、広州への脱出を図ります。

 その途上で、杉坂少佐は敵との戦闘で戦死、久野曹長に関しては運よく敵勢力を脱出し、7日に広東駐留の日本軍に保護されます。その際に、書類をすべて破棄したことが久野曹長から伝えられたことで、大本営はようやく安堵するに至りました。なお、久野曹長に関しては当時の新聞で「大任を果たした」と称賛されています。

 その翌日、12月8日に日本はマレー半島への侵攻やハワイ・真珠湾への攻撃を皮切りに太平洋戦争を開始しました。もし、「上海号」の墜落で香港攻略の作戦命令書が中国国民党政府を通じてイギリスやアメリカなどにわたっていたら、初戦に見せたような破竹の快進撃はなかったかもしれないのです。

 ひょっとしたら、第2次世界大戦そのものの結末も変わっていたかもしれません。

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