第2次大戦中の旧軍機、一式双発高等練習機が2021年に引き続き、2022年10月にも立川で公開されました。同機は、航空遺産にも認定されるほど貴重な機体だとか。

どこがレアなのか、そして立川に来る前はどこにあったのか振り返ります。

生誕の地で公開された「激レア機」

 2022年10月末、第2次世界大戦中の旧日本陸軍機である一式双発高等練習機が、昨年2021年11月に続いて都下、立川市で公開されました。このときは実に80年ぶりの里帰りといえるものでした。

 この機体、日本航空協会から「重要航空遺産」の認定も受けた貴重なものです。一体どの部分がレアなのか、立川に帰ってきた経緯と合わせて見てみましょう。

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2022年10月末に立飛リアルエステートで公開された一式双発高等練習機(キ54)。
外枠を付けるのではなく、機首内部にフレームを入れて補強する形のため、見やすかった(吉川和篤撮影)。

 一式双発高等練習機が展示されていたのは、JR中央線の立川駅北口からほど近い立飛リアルエステート南地区5号棟です。この地にはかつて航空機製造会社の立川飛行機(現・立飛ホールディングス)が存在しており、戦前から戦中にかけて通称「赤とんぼ」と呼ばれた九五式一型練習機や九九式高等練習機、九八式直協偵察機、ロ式(ロッキード)輸送機の製造が行われていました。さらに同社は、中島飛行機(現・SUBARU)が開発した一式戦闘機「隼」の移管生産も行っており、同「隼」三型はほぼ全機といえる1500機がここで造られたものです。

 これら機体を開発・製造する中で技術を蓄積した立川飛行機が自社開発した全金属製双発機が、一式双発高等練習機でした。展示された機体は、立川飛行機の流れを汲んだ不動産賃貸業の立飛ホールディングス(立川市)が2020年11月に所有権を取得して同地に迎え入れたもので、だからこそ「80年ぶりの里帰り」と形容されるのです。

 では、里帰りするまでの間、この機体はどこにあったのかというと、本州最北端、青森でした。

使い勝手に優れた万能練習機として

 そもそも一式双発高等練習機が生まれるきっかけとなったのは、1939(昭和14)年3月に旧日本陸軍が出した新型機の開発要求でした。

 当時、陸軍は九五式二型練習機の後継機として、操縦訓練だけでなく航法や通信、射撃、写真撮影など、機上作業全般に幅広く使用できる、多目的に使える高等練習機を欲しており、その試作を立川飛行機に依頼したのです。なお、これは立川飛行機にとって、全金属製、引込み式脚を備えた初の双発エンジン機ともなりました。

生まれ故郷 立川へ「一式双発高等練習機」旧陸軍の万能機 80年間どこにあった?
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1941年に制式採用された一式双発高等練習機(キ54)の当時の写真。力強くハ13甲型エンジンを回している(吉川和篤所蔵)。

 同社は、中島九七式輸送機並びに、ロッキード・スーパーエレクトラ旅客機をライセンス生産したロ式輸送機の製造経験を活かして、この双発新型機の開発に取り組みます。結果、1940(昭和15)年6月に初飛行に成功、飛行試験も良好で、小規模な改修の後、1941(昭和16)年7月に一式双発高等練習機(キ54)として制式採用されました。

 機体サイズは、全長約12m、翼幅約18m。搭載された日立製の「ハ13甲型」空冷9気筒エンジンは信頼性が高く、視界の良い操縦席や様々な訓練に対応できる広い機内などと相まって、使い勝手に優れた練習機として陸軍などから高い評価を受けます。そのため、多目的練習機としてだけではなく、輸送機タイプ(キ54丙)や哨戒機タイプ(キ54丁)も造られ、連絡機や落下傘部隊の降下練習機としても重用されました。

 こうした派生型まで含めると一式双発高等練習機(キ54)シリーズは合計1342機が生産されています。

里帰りするまでの足どり

 今回、立川で展示された一式双発高等練習機(キ54)は旧日本陸軍の飛行第38戦隊に所属していた機体で、1943(昭和18)年9月27日に秋田県の能代市にあった飛行場(当時)を離陸して青森県八戸市へ向かう途中でエンジン故障に見舞われ、両県にまたがる十和田湖に不時着して水没したものです。この時、訓練中の乗員4名のうち、3名が亡くなりました。

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一式双発高等練習機(キ54)の垂直尾翼にしっかりと残った陸軍飛行第38戦隊の赤い部隊マーク(吉川和篤撮影)。

 その後、敗戦によって陸軍がなくなったことなどから、長らく忘れ去られていましたが、1990年代になって事故の記録から湖に沈んでいることが判明、2010(平成22)年に湖底の地形調査で発見されます。そして、青森県航空協会の有志らにより2012(平成24)年に引き揚げられ、県立三沢航空科学館で展示されるようになりました。ただ同館がその後、改修を受けることとなったため、それを機に立飛ホールディングスへの寄贈が決定、こうして生誕の地へと戻されることになったのです。

 機体は、60年以上にわたり水中にあったものの、淡水の十和田湖は年間を通して水温が4~5度と低温で、加えて紫外線や塩分にさらされなかったことなどから保存状態が比較的良く、一部には運用当時のオリジナル塗装や日の丸、部隊マークなども残っていました。こうした希少性などから、2016(平成28)年には日本航空協会(東京都)から重要航空遺産の認定を受けています。

 このように、歴史的価値もかなり高い立川の一式双発高等練習機ですが、一般公開は2022年10月末をもって最後となるというアナウンスが行われた結果、多くの見学者が詰めかけ、航空機メディア界隈ではちょっとした話題になっていました。

 ただ、これだけ多くの人を引き寄せたのですから、状況によっては今後、再び公開されるかもしれません。同機は、まさに80年前の日本の航空技術を21世紀の今に伝える「生き証人」といえるものです。

 もし、再度公開が行われたら、是非とも会場に足を運んで、当時の日本の航空機産業や技術について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。