戦車といえば、中央に砲塔が一門あるのが100年以上にわたり定番の形です、砲塔が沢山あった方が有利そうですが、なぜそうならなかったのでしょうか。
砲が沢山あれば有利と昔は思われていた?戦車といえば、中央に砲塔が一門あるのが100年以上にわたり定番の形となっています。
ソ連が開発したT-35重戦車(画像:Alan Wilson[CC BY-SA 2.0])。
今から約100年ちょっと前、第1次世界大戦で戦車が初めて運用されたときは、360度回転する旋回砲塔がなかったため、死角を補うため車両の様々な部分に砲がついていました。しかし1917年にルノー FT-17軽戦車が登場すると、前述した旋回砲塔が主流となり、段々と戦車は現在のような形になっていきます。
それでも、戦車を陸上の船に見立て、火力でものをいわせようと設計思想は残り、1925年にはイギリスが多砲塔の「インディペンデント」という重戦車を開発。これが、世界初の多砲塔戦車といわれています。合計5門もの砲塔を持っており、イギリス軍はこの戦車を使用し、歩兵の支援なしで単独で敵陣を突破するというかなり強気な計画をたてていました。
この戦車に刺激され、ソビエト連邦、フランスのほか、日本も多砲塔の戦車を開発するようになります。しかし、いざ作ってみると問題が明らかとなります。
いざ動かしてみると戦闘には不向きという判断にそもそも砲塔がたくさん乗っているせいで構造が複雑になるほか、複数砲塔のため車体の大きさの割に、大きな口径の砲は搭載できないという問題が露見します。さらに必要な人員も多いせいで、指揮もしにくいことがわかります。
最初に作ったイギリスやほかの国も結局使えないという判断を下しますが、ソ連だけは、1930年代にT-28中戦車や、さらに大型のT-35重戦車という多砲塔戦車を量産化します。当時ソ連は世界唯一の共産主義国として、世界から孤立状態にあり、この時代に世界を不況に陥れた世界恐慌の影響も最小限で、野心的な戦車にも回せる開発費用がありました。

多砲塔戦車の元祖「インディペンデント」(画像:帝国戦争博物館)。
しかし、T-28は前述した多砲塔戦車の複雑な構造ゆえに、サスペンションやエンジンに問題が多発。T-35に至ってはこれらのトラブルに加え、重戦車にも関わらず、他の場所に重量を割いてしまったため装甲が脆弱で、しかも砲塔が互いに邪魔をしあうので射界が限定される、という戦闘での問題点も露見することになります。
高い開発費用を使ったものの全く性能に反映されてないということが、T-28、T-35で明らかとなりましたが、ソ連の技術者はそれでも諦めずに多砲塔戦車の新型の企画を立てたということで、当時ソ連の独裁者だったヨシフ・スターリンも「君たちは戦車のなかにデパートでも作るつもりか」と設計者たちに嫌味を言うという事態に。結局その発言に震え上がり計画は中止されることになりました。