戦前・戦後を通じて「海の軽トラ」的に使われた日本独特の小型貨物船「機帆船」。大洋では頼りない性能の小船が、戦時中は軍に徴傭され、苛酷な任務についていました。
日本独自に発達した小型の動力船に「機帆船」という船種があります。その名の通り、エンジンを使用して走ることも、帆を使用して帆走することもできる船でした。
日中戦争・太平洋戦争の時代、大型貨物船や客船などの民間船が軍に徴傭(チャーター)され、危険な任務に従事しました。古めかしい外観を持った機帆船も、それらの船と同様に軍務につき、その多くは返ってきませんでした。本稿では、知られざる戦中の徴傭民間船のなかでも、さらに知られざる機帆船の戦いについて掘り下げます。
1945年7月、八戸港で空襲をうける機帆船(画像:アメリカ海軍)。
さて、機帆船とはどのような船種だったのか、まずはその概要を説明します。搭載されるエンジンは「焼玉エンジン」と称するもので、これは点火プラグの代わりに熱した鋳造製の玉を使って、シリンダー内の圧縮した燃料を爆発させる仕組みで、粗悪な燃料でも稼働する点が特徴でした。この焼玉エンジンは、日本では明治後半から急速に普及し、その特有のエンジン音から、これを搭載した小型船は「ポンポン船」とも呼ばれていました。
『船舶運営会史』によれば、機帆船の1隻あたりの平均総トン数は40総トン程度、そのほとんどが瀬戸内海航路を中心に運行されていたとされます。また、この資料によれば機帆船は「耐波性に乏しく、通信設備も無く外洋航海には不適当であり(中略)少しの時化に際し避難を必要とし又潮流の如何によっては潮待ちをなす」とされており、いささか頼りない性能の船であったことがうかがわれます。
それでも最盛期には1万隻ほどが運航しており(完全に姿を消したのは2000年頃)、その多くが船主=船長の家族経営で、少量の貨物を運ぶには荷主にとって便が良く、戦後は「海の軽トラック」として重宝されていた小型貨物船だったのです。
機帆船、戦場へこうした沿岸航路向きの小型貨物船が軍に徴傭され始めたのは、1937(昭和12)年に日中戦争が始まってすぐのことでした。当時、動員のために大型貨物船36万総トンが徴傭されたのとは別に、約200隻の機帆船や漁船が徴傭されたのです(一部は陸軍で買い取り)。
これら機帆船や漁船は、小型のものは大型船に搭載され、比較的大型のものは船団を組んで東シナ海を渡り、上海を中心とした華中戦域に送られ、陸軍の「中支那停泊場監部」の指示で各種軍需品に弾薬類や小部隊の輸送を行いました。
機帆船の本格的な動員は1938(昭和13)年の漢口作戦からで、揚子江本流を遡航して南京・安慶・九江を経て漢口まで入っています。華中地域ではクリークや小河川が網の目のように流れ、機帆船のような小型船は補給に便利な存在でした。
もっとも揚子江本流中央部の流速は早く、非力な機帆船は岸辺付近を航行するしかありませんでした。このため中国軍からの狙撃対策として土嚢を積んだり布団で船を囲んだりしました。それでも上流から流された浮遊機雷によって弾薬輸送中の機帆船が吹き飛ぶなどの被害がありました。
日本軍は勝ち続けていたものの、「点と線しか支配していない」と称された中国での戦いにおいて、船舶輸送はトラックや鉄道などの陸路と同様に命がけだったのです。

一般的な機帆船の側面図(樋口隆晴作図)。
こうした補給任務は、1941(昭和16)年12月に太平洋戦争が始まると、よりいっそう危険度を増していきます。
むろん当初は航洋性に劣る機帆船が外洋に出ることはありませんでしたが、1943(昭和18)年になるとソロモン諸島やニューギニアで大型船舶を相次ぎ喪失したことから、機帆船を徴傭し太平洋に投入するようになったのです。まともな無線設備もなく、あてにならないコンパスを頼りに、機帆船群は南へと向かったのでした。
同年5月頃の陸軍南方軍配当の各種輸送船は計18万総トンでしたが、大本営陸軍部(参謀本部)はこれとは別に、2000隻の機帆船と漁船を南方軍へ増加しています。
「南方から帰ってきた機帆船は1隻もなかった」県もこれら機帆船の多くは4個中隊からなる海上輸送大隊(大隊定数で機帆船・漁船400隻)2個(第一、第二海上輸送大隊)に配属され、大型船と陸上の中継輸送や、大型船が入れない場所への局地輸送に使用されました。
また「小型で目立たないだろう」ということから、単独での長距離輸送も行っていましたが、その見積もりは甘いものでした。そうした任務では、連合軍の哨戒機に発見され相次いで撃沈されています。
さらに当時、民間の船舶会社である日本郵船が30隻ほどの機帆船を購入し、ビルマ(現ミャンマー)の大河川でこれらを使用して軍の輸送に協力しました。
一方、海軍は、相次ぐタンカーの喪失から1944(昭和19)年5月になると「南方石油還送計画」と称し150総トンの大型機帆船100隻を使用した作戦を始めます。産油地のインドネシア・タラカンからマニラを経て台湾の高雄まで、ガソリン用ドラム缶を使用した石油輸送でした。
結局、「外洋航海に不適当」と言われた機帆船は、太平洋戦争半ば以降、日本軍が戦場とした地域全てに展開して航行するようになりました。
また、軍による小型船の徴傭はかなり行き当たりばったりだったようで、陸軍では1000総トン以下の船の徴傭名簿を残しておらず、それぞれの船舶部隊が必要に応じて勝手に徴傭してしまうことも多かったようです。通常業務中の民間小型船がその場で軍に引っ張られていった、というエピソードもあったほどです。
最終的に機帆船が太平洋戦争でどの程度失われたのか、正確な統計は今も出ていません。例えば和歌山県では94隻の機帆船が徴傭され、9隻が帰還しましたが、南方の任務から帰ってきた船は1隻もなかったそうです。
終戦直後に設立された経済安定本部が、「2070隻喪失、1万6856名戦没」という数字を出しています。この、決して正確とはいえないはずの数字が、徴傭機帆船の運命を伝えるほぼ唯一の記録として、現在残されているばかりです。